わたしの恵みはあなたに十分である
コリントの信徒への手紙第二12章7節から9節を読みます。
●7節.また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。
●8節.この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。
●9節.すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
使徒パウロは、神様から多くの霊的な恵みをいただきました。パウロは、そのことに感謝し、思いあがらないようにと自分を戒めています。
でも、一つだけ何か重荷(身体の障害だと思いますが)を持っているのですね。
その重荷が、思い上がろうとする自分の心を謙虚になるように戒める。パウロはその重荷を神様の配慮と受取り、そのような神様の配慮に感謝しています。
わたしたちは優れているから存在しているのではない。
もし、その人が本当に優れているのならば、それは神さまがその人に貸し与えたもの、恵みです。
何もその人が努力して、自分の力で得たものではないのです。だから、どんなに優れている人でも謙虚であるべきだと思うのです。
人は病気になるとか逆境になると弱気になり、謙虚になります。また、人は順境ではなく逆境にあって忍耐を身につけます。それも神様の配慮でしょう。
本当の自分の姿を発見するのは、褒められたときではなく、けなされた時と言えます。
その人の挫折とか重荷とか弱いところがその人の成長のために糧となるのでしょう。
よって、人生の重荷と言える、恵まれない環境に育った人、障害を持つ人、病気を持つ人、不運な人、才能がないと思いこんでいる人も人間社会にとっては貴重な存在となります。
わたしたちはそういう色々な方がおられる人間社会で、助け合いと隣人愛を学びなさいと言われていると思うのです。
この世に生まれてきた(創造された)ということは、どのような人でも意味(造られた目的)があって生まれてきたと思うのです。
それは、わたしたちが信じる神様は無駄なことは何一つされない方だからです。
そうでしょう。わたしたち人間でも何かを造るときは目的があって造るものです。
だから、今自分が置かれている状況を見て、その状況には必ず意味があるから、その意味を見いだせれば人生で何事が起こっても、それは失敗とか無駄なことではなく、自分にとって必要なことであり、また、そういう自分の存在も社会にとってなくてはならない存在と思えるようになるのではなかろうか。
たとえそのことを自覚できなくても、自分を目的を持って造られた神様を信じていれば心は平安でいられると思うのです。
そうですね、人生で失敗とか無駄だと思われた経験が、その人を高め、成功に導くことはよくあることです。
それは、人生で起こる出来事には何一つ無駄はないと言うことではないでしょうか。
わたしたちを創造された神様は無駄と思えることもそれを用いてわたしたちのために益として下さるのです。
その様に考えれば、どのような人との出会いも、その人が敵対者とか競争の相手とかになるのではなく、お互いの存在を素直に評価でき、その出会いを喜ぶことができるのではないでしょうか。そして、その出会いが人生の糧となる。
人の魅力について考えてみると、ある人に魅力があると言うことは、その人に何か欠けたところがあるからと言えないだろうか。
何処からみても欠点のない人に魅力はあるのだろうか。人間は不完全だから、弱いから人間であって、人間らしいと言えないだろうか。
完全なものに何の魅力も感じない。それは、作られたものにすぎないからです。
人は不思議に欠点、弱みを見せる人に好意を持ち、安心します。
どんな人でもこの世を共に生きる愛すべき存在です。
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