この世に不要なものは一つもない
コリント信徒への手紙第一12章21節から26節
●21節.目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
●22節.それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
●23節.わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。
●24節.見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
●25節.それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
●26節.一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
ここでは、わたしたちの体の各部分には一つも不要なものがないということをたとえにして、この世に不要なことは一つもないと教えているのだと思います。
なぜ不要なものがないのかと言えば、この世を支配されている神様が不要なものを、創造の完成のために用いて益にして下さるからです。
わたしたちは誰でもそのときどきで劣等感を持ったり優越感をもったり、愛したり憎んだりと忙しい限りです。
不具の体を持って生まれてきた人、不治の病を持つ人、頭が悪いと嘆く人、育った家庭環境が悪くて心が歪んでしまった人、貧乏から抜けられない人。病気とか事故で体の殆どの機能を奪われた人もおられます。
そのように、その人の責任によらないで重荷を負っている人も多くおられます。
それらはすべて神様がご計画を持ってその人に与えたもので、それらの重荷を背負って、残された機能を生かしてこの世を生きなさいと言われているのでしょう。
神様はその人がどのように生きるかを見ておられるのでしょう。
もちろん、その人の周りの人がその人とどの様にかかわるかも見ておられるでしょう。
たとえ結果が、恵まれて生まれてきた人のようにできなくても、より多く祝福して下さるのでしょう。人生も過程が大切なのでしょう。
聖書は、一人としてこの世で不要な人などいないと教えます。
たとえば、大会社の社長にしても、ノーベル賞をもらった学者にしても、どれほどの人がその人を支えるために働いておられるか。
よく考えれば、わたしたちがこうして日常生活を送れるのも、もちろん、命を与え支えてくださっている神様のおかげもあるが、毎日のように食べる物、着る物何一つ自分で作ったものはなく、どれほどの人がそれを作るのにかかわっているかを思うと、感謝せずにはおられません。
こうして人々は気がついても気がつかなくても、多く人のおかげで毎日を送れているのだと思うのです。
自分が働いたお金で着る物を買っているのになぜ感謝が必要かと言われる方がおられますが、お金があっても誰かがその着るものを作らなかったらお金など役に立ちません。
人生のすべての出来事も、とりようによっては、見方によってはいらないことなど一つもないと思います。
今無駄なことだと思っていても、将来必ず必要になることは大いにあります。
わたしの人生を振り返って見ても、そのときは無益なことをして寄り道をしたと思っても、今から振り返るとそのことがあるから今があると思えることも多いにあります。
この個所は、キリスト者の共同体の在り方としてよく用いられますが、わたしはすべての人々の在り方として読みたいと思います。
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