わが人生を振り返る
わたしは道に迷ったら、自分の内心の意志に聞き導かれるところを進んでみることにしています。もし、その選択が神様のみ心に適っていないならば必ずダメになる。
それが分かった時に引き返せばよいと思う。無駄と思われる回り道も、神様は将来その経験を用いてわたしの益として下さる。
人生まじめに生きていればきっと神様は助けてくださる、その様に信じています。わたしは自分の歩んだ道を振り返ってみて、神様の摂理、配慮をそこに強く感じています。
少し、恥ずかしながらわたしが歩いてきた社会人としての道を書いてみたいと思います。参考にもならないと思いますが、
わたしの歩んできた道は、誰も関心を持たない、平凡な人生です。過去を振り返ってみて、まことにわたしらしい人生を送ったと思っています。もう一度やり直しても、やはりまた同じような人生を歩むのでしょうね。
今になり、歩いた道を振り返ってみて、そこに神様の守りと配剤を強く感じる次第です。
特に優秀でもなく、特に恵まれているのでもなく、どこにでもいる普通の人間の人生です。
わたしは子供のころから強い願望とか目標を持ったことはありません。もちろん、人並みに趣味というものを持ってはいましたが、本気になって具体的に努力したわけではありません。
現実はその趣味すらも社会人になればどこかに消えてしまいました。
高校生の頃は純文学をよく読みました。最初に出会ったのは、山本有三、それから夏目漱石、トルストイ・・・最後に武者小路実篤です。
そして、わたしの人生に、人生観に最も大きな影響を及ぼしたのも武者小路実篤です。
そのためか、わたしはいつも人生如何に生きるべきかを考えていました。考えるだけで、結局50歳を過ぎてキリストに出会うまでは答えも得られないままでした。当然と言えば当然の結果です。
特別な目標もなかったので、学校も職場も特に努力もせず与えられました、与えられた道をそのまま受け入れて進学し、就職をしました。高校進学は推薦で入学、就職先は親類の紹介です。
決めた動機が自宅に一番近いから時間ができる、そうすれば自分の好きなことが出来るという動機ですから、笑ってしまいます。
もちろん、結婚相手も一生懸命婚活したわけでもありません。人の紹介により今の妻と出会ったのです。あくまで受け身なのです。
大学は23歳の時に夜間に入学し27歳で卒業しました。それも、今言われているほど受験勉強をした覚えはありません。一応受験するために受験勉強をしましたが、あくまで自然体で入学できたから入学したと言うだけです。
その大学は職場から最も近く学費も安かったから選んだと言うだけです。大学を卒業して有利に出世街道を歩みたいという動機などではなく、ただ、現状に満足ができないので、何かを求めて大学に進んだと言うだけです。
大学に入学したことで、生涯の友人を得ることができました。収穫と言えばこれくらいだと思います。
この頃に仕事の関係で金融法務に出会い、これを学びたいという思いが与えられ、その思いがわたしの一生を決めることになります。
神様の配剤と思いますが、この二年ほどのちに、その道の専門知識を持つ方と知り合い、教えを受けることになります。
わたしはこのように一言でいえば、供えられた道を素直に受け入れて、その中で自分なりに努力してきたつもりです。そして、自分のできること、できないこと、したくないこと、したいこと、つまり、自分を知っていたと思うのです。
できないこととか、したくないことは、その道がどんなに華やで収入につながる道であろうとも求めませんでした。
やりたい仕事があれば、入りたい会社があれば挑戦してみること。何らかのスキルを持っていればよいのですが、学校を出たてのころはその様なものは持っていないはずです。
だから、職場を選ぶのなどもってのほかですが、それでも、自分に向いていないと思われる業種はありますから、一応の選別はできます。
一生懸命努力して大企業に入っても、自分に合っていると思われる職場に就職しても、長い人生です。何が起こるかわかりません。生涯の仕事は、就職をしてからゆっくりと決めればよいと思うのです。
就職した会社が大企業であっても、長い会社生活の中でその職場がどのようになるかなど、つまり、倒産とかリストラとか、日のあたらない場所に左遷されるとか、色々あるのですが、それらを事前に予測して避けることなどできません。
要は与えられた環境の中でどのように生きるかが問題ではと思うのです。中小企業に入っても、独立しても十分幸せな人生を送っておられる方も多くおられます。
また、職場と言うか会社と言うところは、その会社の体質と言うものもあり、好きな仕事であっても自分に合わないと言うこともありますからね。
これなど、その会社に就職してみなければわかりません。だから、就職する前から、あれこれ考え、調査をしても限界があるということですね。
時代の流れの中で右往左往しながら自分なりによかれと思った道を選択し、その時その時をやけにならずに忍耐をもって一生懸命に生きること、それだけだと思うのです。
もちろん、自分の人生を強い意志と努力で切り開いていかれる強い方も大勢おられますが、そういう賜物を持った方はそういう道を歩くように備えられているのですから、それはそれで、尊敬すべきだと思います。
その時その時を足るを知り、良かれと思うところを一生懸命に生きる。そうすれば、自ずと道は開けると思うのです。まじめに生きる者を神様は決して見捨てられないと思うのです。
業務内容が自分には合っていないと思われる会社でも、会社の中には色々な仕事があります。
わたしはその色々な仕事の中から自分に合った仕事を見つけてその仕事のスペシャリストになる道を選びました。
その会社の中ではその仕事については一番になる道を選んだのです。わたしが選んだその道は誰もが嫌がる仕事でした。
その代わり、華やかな、誰でもが求める出世街道と言われる道はあきらめました。いや、あきらめたと言うよりその様な道を歩きたくなかった。自分には無理だと思っていました。
わたしは自分の能力、したくないこと、できないことを知っていたつもりです。自分を知ると言うのは、大切なことだと思っていましたからね。
一応最初に務めた会社と同じ業界で定年を迎えました。それだけを見ればわたしの人生は平安そのものと思われますが、それでも、なんの問題もなく現役時代を送れたわけではありません。
というのは、最初に務めた会社は27歳のとき規模の大きな同業者に吸収合併され、わたしはその合併したその会社に勤めるようになったのですが、
その会社でも人員を三分の一に減らすリストラがあり、最初に務めた会社の同僚で最後まで生き残ったのは10人ほどでした。
その会社も、わたしが54歳のときについに倒産し解散、このときに社員の三分の一が同業の会社に拾われましたが、三分の二は職場を失いました。
この二度目の会社に拾われた時には、最初に務めた会社の同僚はもう誰もいませんでした。
この二度目の会社へは、専門職と言うことで請われて行ったのですが、転職先の上司とうまが合わず、干される運命となりました。
友人は、もう少しうまく立ち回れば請われていったのだから役員にでもなれたのにと言っていましたが、わたしは己の性分は曲げられませんでした。このために、上司である役員から変人扱いにされました。
今の社会を見ていると、確かにわたしが生きた現役時代に比べれば大変であることはよくわかります。
しかし、要は仕事に、いや、人生に意味を見いだせないから、社会の中に自分の居場所を見つけられないから行き詰ってしまう、これに尽きるのではないでしょうか。
この世を生きることに意味を見いだせなかったら、何らかの艱難に出会った時、生きるのがつらいと思うのではなかろうか。そのために、絶望し、不満も出る。
生きることに意味を見いだせるか否かは、その人の考え方、見方次第だと思うのです。
言い方を変えれば、人生の何に重きを置くかだと思うのです。居場所というのは、ちょっと見方を変えればいくらでもあると思うのです。自分が知らないだけかもしれません。
この世のことはこの世で何とかなる。なんとかならないときは、次の世で神様が何とかして下さる。違いますか。この世から次ぎの世につながる人生は最終的にはつじつまが合うようにできていると思うのです。
だから、この世で成功したからといって傲慢になってはいけないし、次の世があるからといって、この世ですべきことをさぼってもいけないと思うのです。
与えられたことを淡々とこなし、次の世に希望を持ってこの世を生きたいと思います。
聖書の教えを、日々心に留めて生きるように心掛けてはいるのですが、なにしろわたしは人一倍弱い人間です。
心の中では、このようにしたいと思うわたしとその様にできない二人の自分がいつも葛藤しています。ただただ神様の憐みにすがるほか、救われることがないのもよくわかっているつもりです。
わたしは思うのです、進学も就職も大変ですが、もし、どのような学校であれ、職場であれ与えられたならば、欲張らずに、上を見すぎないで、その中で自分の居場所を探すようにすればいかがでしょうか。
そこが自分の居場所でないならば、神様はきっと別のところを備えてくださる。決して、無理をしないで自然体で与えられた道を受け入れて歩むのも一つの生き方だと思うのです。
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