人生で道に迷ったら
わたしは神様の存在を信じる者です。その神様はこの世の万物を創造され、摂理(自然界を支配している法則)をもってこの世の万物と万象をつかさどっておられると思うのです。
ある科学者が言っておられました。
「その摂理、すなわち万物と万象には「調和」を感じる。存在するものにはすべて意味が付加されており、それらはすべて関連しあっている。あらゆる存在は奇跡としか思えないほど完全なシステムとして在る。」
科学者の目から見るとこの世の万物・万象は驚くほど精密で調和していると言うことです。そして、それらはすべて関連しあっている。
わたしたち個人の一生をみてみても、寿命の長短、人生の中で負う荷物の大小、不公平、不条理に思えることが多々あります。
夭折した人、生まれながらに重い障害を負っている人、善良に生きているのにつらい目にあう人もおられます。
これら不公平・不条理な出来事を神がおられることを前提にして見直してみたらどのように見えるのでしょうか。
そうです、われわれの人生の旅は死後も続く、そして、神様の意思[摂理]は来世(聖書は来世に至る命、神様と共に生きる命を永遠の命と言っています)に至るまで生きる中で折り合いがつくように働いている、と考えます。
この世の出来事のすべては、最終的に折り合いがつくようになっていると思うのです。それほど神様の摂理は調和がとれていると言うことです。
だから聖書に書かれているように個々の人間について裁きがあるのは当然だと思うのです。聖書の裁きと言うのは、不条理は不条理のまま、不公平は不公平のまま置いておかないと言うことだと思うのです。
それは先の科学者が言われているように、この世の万物・万象のなかにある見事なまでの調和がそのことを証していると思うのです。
その様に考えれば、現世での苦しみや悲しみも多少なりとも癒される。また、その様に考えなければ、この世の矛盾に満ちた人生を理解できない。
人生におけるさまざまな失敗や挫折、病気や怪我など自分の身に起こる災厄とは、神様が個々の人間に、それぞれ自身で責任を負って大切な何かを学ぶために与えた試練なのではないでしょうか。
それが神様の創造の目的を達成するために必要であり、終着点は神と共に生きることのできる新しい人間の創造だとわたしは思っています。
偉大な発見・発明や万物、万象からわたしたちが気付くこと、営みまで、そのことごとくは神様の意思の中にあると思うのです。
そうですね、わたしたちの生死、親・兄弟、生まれた地、国、仕事、知人、友人、住居などなどすべて、実は神の配剤だと思うのです。
わたしたちは人生の中で色々と選択を必要とする場面に出会いますが、自分が自由意志で選んでいるようであって実はそれらのことをすべて神様はご存じで、
神様はそれらわたしたちが自由意志で選択をした結果を用いて創造の目的を達成するために導かれている。
人生が不公平だと思ったら、人生が不条理だと思ったらわたしは次ぎの聖句を思い出します。
コリントの信徒への手紙一 / 10章13節
●13節.あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
またこのようなパウロの言葉があります。
コリント信徒への手紙第一3章18節から19節
●18節.だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。
●19節.この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。「神は、知恵のある者たちを/その悪賢さによって捕らえられる」と書いてあり、・・・。
人間は神様につかまったらその瞬間自由になれる。人間は愚かであるが、その歩み、つまり、自己中心的な歩みを神様中心の歩みに変えたら、その人は本当に知恵ある者となる。
それは本当の自由を手に入れることになるからである。
世は移り変わりが激しく、自分の思う通りにならないもの。その様なことに心を奪われていれば、ストレスがたまり心は不自由で仕方ない。
人間は愚かであるから夢を見たり期待したりする。愚かなことは恥ずかしくて忘れてしまいたいのはやまやまだが、忘れられないし、また、同じことを繰り返すのも事実です。
どんな愚かしいことをしても、弱い人間だから神様は赦して下さる。人間とはそういう動物だと思う。それで良いと思うのです。だから、こうあらねばならないと言うことなど糞くらえです。
神様はこのような愚かな人間のことをよくご存じで、その上で愛して下さっている。そのことを本当に知ったならば、わたしたちは自由になれる。
なぜ自由になれるかと言えば、人生の中心を神様と言う岩盤の上に置くからです。だから、不安がなくなる。
マタイの福音書5章3節から4節を読んでみたいと思います。
●3節.「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
●4節.悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
人生かならず辻褄が合うようにできているとわたしは思うのです。幸があるから不幸が分かる。不幸があるから幸が分かる。
しかし、不幸があるから後で幸せになるとは、この世だけを見れば,そうとは限らないのも事実です。
でも、来世を信じていれば、神様の摂理は、驚くほど調和しているからその様になると思うのです。神様を知ってそのことを本当に信じることができれば、心は安定する。
ルカの福音書6章24節から25節
●24節.しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。
●25節.今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。
「富んでいる人は不幸である」、この言葉が文字通りならば誰も経済的に豊かになろうとは思わない。
しかし、この聖句は誰が何と言おうが真実なのです。それでは、どういう意味でしょうか。
つまり、この世の人生80年、長くても100年。しかし、聖書は来世もあると言っているのです。わたしたちの人生は、永遠だと言っているのです。
だからこの聖句は、その様な人生観のもとに考えなければならない。
泣く者は慰められ、笑う者は不幸にあって泣き。もっているものは、いつかは失い、健康な者は、いつかは病になる。わたしたちはこの人生のパラドックスの中をもてあそばれながら生きている。
それは、真理に出会うためだといえる。そう、神様にです。
社会は矛盾に満ちている。物質的に豊かになればなるほど見捨てられ、不必要とされ、ほっておかれる人が増えてくる。
資本主義社会はそういう矛盾の上に成り立っている。だから、目に見えるものだけを見て、物質的なものを拠り所にして生きていては、心は一喜一憂し、とても平常心ではいられない。
絶対なものを信じなければ心はいつも不安定です。そうですね、目に見えないものに真理があると聖書は言っているのです。
富んでいる人とは、そのような資本主義社会で成功した人のこと。だから、その人たちは富んではいるが心は平常心ではいられない。
それは、この世の富を心の拠り所として生きているからと言える。この世の富に心を奪われれば奪われるほど、その人の心は神様から遠ざかる。だから不幸だ。
いわゆる負け組と言われる、この世に見捨てられ忘れられて生きている人のほうがより神様に近い、だから、幸いだと聖書は言っている。
それは、その人にとって頼るべきものは神様しかいないから、神様に近い人、だから幸いなのです。
変わることのない、信頼のおける、絶対的存在である神様を心のよりどころとすることができたら、わたしたちの心は安定し、この世を豊(経済的にではなく)かに生きることができる。
一言付け加えるならば、経済的に富んでいても神様を知り心豊かな人もいれば、貧しくても、十分な賜物をいただきながら、賜物をいただいた神様に背を向けて、それらを用いないで怠けている貧しい人は心が豊かとはいえない。だから、ここはどちらがより神様に近いかと言うことでしょう。
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