キリスト教は教えの宗教ではない
2000年前にこの地上を生きておられたナザレのイエスが現在のわたしたちの罪の贖い主となる、と聖書は教えています。
これはいったいどういう意味なのでしょうか。今回はこのことを考えてみたいと思います。
キリスト教は2000年前この地上で生きていたナザレのイエスという男を神の子と信じる宗教です。
イエス・キリストのキリストとは救い主という意味ですから、ナザレで生まれた2000年前の男がわたしたちの救い主と崇めることです。
罪を贖うために死ぬということは、人身御供になるということです。人身御供になるためには、イエスはわたしたちと同じ人間であらねばなりません。
誰に対する罪かと言うと、神に対する罪です。だから神に全人類の罪の許しを願うためにイエスは代表して、生贄として十字架に架けられ殺されたのです。
それは父なる神が人類を愛するゆえの御子イエスによる贖いのご計画でした。罪の贖いの生贄は罪のない方しかなれない。罪の中にある人間は贖いのための生贄とはなれないのです。
イエスは過去・現在・未来のすべての人類を代表して、象徴的に人身御供にされたのです。誰がしたかと言うと、人間の手を借りて神がされたのです。だからイエスは神の子だと聖書は言っているのです。
だからわたしたちクリスチャンは、イエスを尊敬し賛美し崇拝するのです。感謝するのです。
このように、キリスト教は「イエスの教えの」宗教ではないのです。
イエスの十字架による死、イエスの復活、聖霊降臨という出来事があって初めて「罪の赦しの贖罪の犠牲」が意味を持ち成立したからです。
キリスト教の根幹の完成です。このように、キリスト教は、教えは従で出来事が主なのです。2000年前にナザレで生まれたイエスという男に関する出来事がキリスト教を生んだのです。
キリスト教は、約2000年前にこの地上におられたイスラエルのナザレのイエスが今もわたしたちの内に生きておられると教えます。
わたしの妻も霊的に恵まれた人で霊イエスと直接会話しています。 わたしには残念ながらそういう恵みは与えられていません。
イエスは「わたしがあなたがたに話した言葉は、霊であり命である。」(ヨハネの福音書第6章63節) と話されました。
2000年前にこの地上に生きておられたイエスが、今の時代に、同じようにしかも個人的に語りかけて下さる。実に不思議な出来事です。少なくとも体験者は事実だと主張しています。
わたしはそれを聞いたとき、最初は不思議でなりませんでした。自分の妻ですからウソをついているとは思いません。語りかけられたその時には、心の中は喜びと平安で満たされるそうです。
そうして語りかけられるのは、もちろん復活した霊イエスです。いまも私たちを導くために働いておられるのです。
それでは、霊イエスと会話をするというような特別な例は別にして、どうすれば神を見出すことができるかという質問に対してCS・ルイスはこのように言っておられます。
「もしあなたが神を欲していなかったら、どうしてあなたは神を欲したいとそのように一生懸命になるのですか?
わたしの考えでは、実は、神を欲したいという願いが、真の願いであり、そう願う人は、まだ完全に意識していなくても、実際は、神を見出しているのです。
わたしたちは、物事が起こっているそのときには、そのことに気づかないことがあります。いずれにしろ、それよりもっと重要なのは、神がその人を見出したということであり、それこそ、最も大切なことなのです。」
つまり、ルイスはこう言っておられるのだと思います。誰でも一度は本当に神がいるのだろうか、いないのだろうかと考えたことがあると思います。
その結果、神がいると信じる人と、神の存在を考えるのをやめる人もいる。しかし、神がいないと言われる人は何を根拠に言われているのでしょうか。
そうそう、神がいると信じることができなくても、生涯をかけて求め続けておられる方もいる。そうなれば、もう信じているのと同じだと思うのですがね。
それでは、神がいないと言われる方にお聞きしたのですが、その根拠は何でしょうか。
わたしたちクリスチャンにとって、神は万物の創造主のことです。念のために書きますが、他の宗教のように、山とか川とか石とか昔の偉い人間などではないのです。
もし、神がいないということは創造主がいないということですから、この世の万物は偶然にできたことになります。宇宙も人間の進化もすべて偶然の結果となりますから、「神がいない」と考える偶然の産物である人間の思考も偶然に生まれたものといえます。
思考は分子の働きの偶然の副産物ということです。不思議なのは、偶然の副産物である思考が、なぜ「神はいない」と断言できるのでしょうか。
神がいないということは、この世界の出来事には何の法則も意味もないということですからね。そうであれば、その思考によって生みだされる善悪の判断の基準はどこにあるのでしょうか。
わたしにはわからない。そしていえることは、善があるから悪があると思うのです。善をしたいと思うのが普遍的であって悪をしたいと思うのは副産物だと思うのです。
人間も宇宙もすべてが偶然の産物ならば、どうして物理法則があるのでしょうか。どうしてわたしたちは一定の法則の下に生きているのでしょうか。
どうして人の喜ぶことをするときには、自分自身にも喜びがあり、人が悲しむことをするときには罪悪感があるのでしょうか。ほとんどの民族が共通して持っている良心というもなぜあるのでしょうか。
この世界には、一定の秩序とか法則があることは誰でも知っています。それらは偶然の産物でしょうか。偶然から秩序とか法則が生まれることはないと思うのですが。
わたしたちは秩序を好みます。東北大震災で日本人の秩序あるある態度が世界中から称賛されました。このように秩序ある態度を称賛することは、どの民族においても、どの国家においても共通したものだといえないでしょうか。
おそらく、そこには隣人愛があるからだと思うのですが。どの民族でも同じように称賛する隣人愛というものは偶然の産物ではないと思うのですがいかがでしょうか。
神はご自分のすべてを明らかにされていませんから、人間は神の一部しか知ることができませんので、信じるしかないのですが、信じる人がいるということは、そういう思いを持ちたくなる何かの一定の力が働いていると思うのです。
平たく言うとそういうようにわたしたちは造られているからだと思うのです。被造物は創造主を求めるように造られているものだと思うのです。
神の子イエスは、十字架の後、復活されて弟子たちに40日間教えを述べられてから天に昇られました。それから10日後に弟子たちに聖霊が降り、その聖霊は今もわたしたちの内に働いておられ、イエスを証しておられるのです。
そうしてこの世はサタンの支配下から神の支配下に移されたのです。そのことを証言する人が現実には無数と言われるほど大勢おられるのです。世界人口の三分の一以上がクリスチャンですからね。そういう人の証言が妄想ならばこの世の何が現実なのでしょうか。
神がいるというのが妄想ならば、神はいない、聖霊もいないという証言も妄想だと思います。しかし、現実を見れば、神がおられる、聖霊は今もわたしたちにイエスを証しておられることに賭ける方が正解だと思うのですが、いかがでしょうか。
このように、キリスト教は教えの宗教ではなく出来事を証する宗教だと思います。
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