イエスの系図と死の連鎖
新約聖書マタイの福音書の冒頭にイエスの系図が載っています。系図というものは、家系の血統を書いたものと言うのは、確かにそうですが聖書では少し違った見方が必要なのですね。
今日はそのことについてちょっと書いてみたいと思います。
イエスの系図は、ダビデの横恋慕によるウリヤの夫の殺人という不義の殺人の事実を背景にして、「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」といい(マタイの福音書第1章6節)、殺した者と殺された者の名を明記しています。
そのダビデの子孫がイエスであると明記しているのです(マタイ第1章6節から16節)。
この系図の表題は「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」となっています。イエスは殺人者ダビデの子孫なのです。
イエスの母マリアの夫ヨセフは、ダビデの子孫でヨセフはマリアと男女の交わりなくして聖霊、すなわち「命を与えるのは霊である」(ヨハネの福音書第6章63節,二コリント第3章6節参照)によってイエスが生まれたのです。
ではヨセフとマリアの男女の交わりなくして生まれたイエスがなぜダビデの子孫ヨセフの子となるのかですが、そこがこの系図が伝えようとしているポイントだと思うのです。
逆にいえば、イエスはダビデの子孫とありますが、このようにマリアの夫ヨセフは殺人者ダビデの子孫であるがゆえに、ヨセフはイエスの生誕、マリアの妊娠にかかわっていないのです。
この系図はイエス・キリストの系図とありますが、本来系図は血の継承を著すものですがイエスの系図はそうではなく、ダビデの子孫であるヨセフの血はここで途切れていて、聖霊により生まれて新しい命に転換しているのです。
だからキリスト者はイエスを信じることによって古い命に死に新しい命に生きるのです。言い換えれば、アダムから続く罪の中に生きる古い人間が死に、罪がぬぐわれた新しい人間が誕生するのです。
新しい人間の先穂イエスは処女から聖霊により生まれたので無原罪ですから、そのイエスに倣って生きる人間も罪赦されて新しい人間として創造されるのですね。これはキリスト教の真髄です。
これは非常に重要なことだと思います。イエスの系図は、イエスの血の継承を著しているのではないのですね。
わたしは、最初イエスは処女マリアから聖霊によって生まれたのならば、メシア(イエス)がダビデの子孫から生まれるという預言とどういう関係するのか不思議に思っていました。
系図は男系によって書かれますからそうなのかな程度に思っていました。しかし、よく考えるとすごい意味が隠されているのですね。
つまり、この系図によってマタイは、血の系図、つまりアダムから続いた罪の継承を断絶させイエスによる新しい命の創造を伝えたいのだと思うのです。
異邦人伝道の使徒パウロも、もともとユダヤ教徒でキリスト者迫害の先鋒で、殺人者でした。パウロは「徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました」(ガラテア書第1章13節)。
ユダヤ教徒サウロ(パウロ)にとって、キリスト者を殺すことがユダヤ教徒として生きがいであったのだと思います。
こうして見ると、聖書はイエスの言葉に最も忠実に生きた、信仰的に最も活躍した人々が殺人者であるとしています。
このように、聖書はキリスト信仰にとって都合の悪いことをあからさまに書いているのです。だから信用できるという面もあるのですね。
新興宗教の教祖も本を出版されていますが、自分に都合悪いことはおそらく書いていないでしょう。このように、聖書はイエス・キリストを宣伝するための書物ではないのです。
そして、そのうえで、そこに救いへの入り口が 開かれていると告げているのです。聖書はこのように、殺した者も殺された者も両者とも新しい命に生かされることを教えています。
殺人と言う最悪の行為が救いにつながることを教えているのです。まさにイエスの系図が示すとおりです。
人間誰でもひそかに人を殺したいと思う時があると思います。それは、創世記第4章14節に「わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」とありますが、これは人類最初の殺人者で弟を殺したカインの言葉です。
おそらくこれは仇討のことを言っているのでしょう。
「人の血を流す者は人によって自分の血を流される」(創世記第9章6節)。
殺した人は他の人によって殺され、その人もまた殺されることになるから、殺人がとめどなく続く。殺人は止めようのない殺人の連鎖になります。そういう事実を扱ったテレビドラマを見たことがあります。
これは恐ろしいことですが、事実です。この殺人連鎖の法則は聖書に一貫しています。ここにもきれいごとで済ませていない聖書のリアリズムがあります。
こうして見ると、殺人と言う罪の連鎖は死で終わるのではなく、そして、その人のすべても死で完結するわけではないのですね。
アダムの犯した罪が何千年後の子孫であるわたしたちにも及ぶというのはこのことなのですね。聖書はそのように言っていると思います。
現在でもよく聞く「死んでお詫びする」という言葉も、聖書的にはあり得ないのです。わたしたちはアダム以降命を受け継いでいますが、死(罪、殺人)をも受け継いでいるのです。これが聖書のいう人間の罪です。
この世で何をしても死んだらお終いではないのです。この連鎖が断ち切られなければ、 死は克服されない。その克服の方法を聖書は教えているのです。それがキリスト教のいう神の無条件絶対の恩恵による救いという意味でしょう。
悪魔と言うのは罪に誘う力だと前に書きましたが、その力は神の霊、聖霊の働く命の場に働くのです。聖書では罪の代償は死(霊的な)であると言っています。
このように罪を通して死が力を発揮してくると、その影響は人間にとどまらなくなります。
殺しの連鎖は人間だけでなく、被造物一般、つまり自然界をも巻き込むことになるのですね。創世記にこのような言葉がありまます。
人間は他の被造物を支配することを許されましたが、その後で神に背き、神から「お前のゆえに、土は呪われたものになった」と宣告されました(創世記第3章17節)。
このように、自然を呪われたものにしたのは人間なのです。人間は自然の支配を神から委ねられましたが(創世記第1章28節)、自然を破壊することを許されたわけではありません。
自然は人間ために作られた被造物ですが、神が良しとされて造られた物を壊してしまえば神のみ心に反するのは当たり前でしょう。
ローマの信徒への手紙第8章22節「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」の通りです。
人間は神にそむくという罪を犯したがために、生きるべき正しい道から外れ、自然に対しても「殺人者」になったのです。
どんなによい人でも、心の奥底では殺人への力が働いています。それが人間の現実なのだと思います。
ということは、善いことをして人生を生きると言うだけでは、アダムから永遠と継承されてきた罪の問題は解決しないということになります。
イエス・キリストの系図にあるようにイエス・キリストに倣って古い命から断絶して新しい命をもらう必要があるのですね。
だから聖書は古い命のままでは天国へいけない、死があるのみだと言っているのです。天国へ行くには新しい命に生きる必要があると言っているのです。
古いものが死ななければ新生はないのです。言い換えれば、死は消え去ることではなく、移り変わることだと言っているのです。
聖書にイエスの言葉としてこのような言葉があります。「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイの福音書第10章28節)。
キリスト教のいうイエスの復活は、イエスの言葉を信じる者が、十字架で殺され、死んで復活したその死と復活に倣い新しい命をいただくこと。
それは、わたしたちの死と罪の連鎖から、つまり、すべてのものに働く死と罪の力からの究極的な解放だと思います。
このように、キリストによらなければ、死と殺しからの救いはない、というのがキリスト教のメッセージだと思います。
イエスの系図は、救い主がダビデの子孫から生まれると言う預言の成就を示そうとしていると同時に、アダム以降の罪の連鎖から救われる方法も示しているのです。聖書の一貫性ですね。すごいですね。聖書には意味のない言葉は一つもないのです。
殺人の連鎖の克服は、人間の努力では無理だと聖書は言っているのです。己の心を神に明け渡し、死と罪からの究極的な開放しか殺人の連鎖は止められない。
なお、信憑性と言う面では、イエスの系図は当時子供と女性は人間として扱われなかった男尊女卑の社会でした。
それなのに、女性を三人も登場させて、しかもその女性は遊女のふりをして義理の父と不義を働いたタマル、遊女のラハブ、男を結婚するように誘い込んだルツ、ダビデの不倫相手である異邦人であるウリヤの妻バト・シエバの四人です。
このような系図は当時のイスラエルでは論外です。強く受け入れを拒否されたでしょう。聖書は、このように聖書にとって都合の悪いことを平気で載せているのです。だからわたしは聖書を信頼するのです。
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