イエスとペトロ
わたしたちは罪びとだと言いますが、日常普通に暮らしている人は、ほとんどの人は自分が罪びとだと思っていません。
でもね、聖書の言葉から導かれて己の罪を思い知らされて悔い改めに導かれるという体験をほとんどのクリスチャンはしていると思います。
聖書が言う罪は自分自身の存在にかかわる人間の本質の問題ですから、罪が示され悔い改めに導かれればその人の人生を大きく変える力があります。
ヨハネの福音書21章1~19節は、イエスが捉われて十字架にかけられるときに、エルサレムからガリラヤ(ティベリアの湖畔)にイエスの巻き添え食うことを恐れて逃げ帰った弟子たちに再び復活のイエスが現れた箇所です。
元漁師であったペトロは故郷ガリラヤへ帰り、元の職業であった漁師に戻ろうとしていました。師が十字架にかけられて殺されようとしているのに、師であるイエスと約三年間も寝食を共にしたのに冷たいですね。
しかし、人間は自分に不利なように情勢が変われば逃げてしまうものです。師であるイエスの言葉を信じているといっても、いざとなればこんなものです。人間の弱さを表しています。
ペトロが、「わたしは漁に行く」と言ったら、一緒に帰ってきた他の弟子たちも一緒に漁に行こうと言って漁に出ますが、その夜は何もとれませんでした(同21章3節)。
夜通し働いても、何もとれずに夜明けを迎えました。夜が明けたころ、復活したイエスが岸に立っておられましたが、弟子たちはそれがイエスだとは気がつきませんでした(同21章4節)。
そのイエスが「子たちよ何か食べ物があるか」(同21章5節)と問われました。弟子たちはその人物がまだイエスだとも分からないで「ありません」(同21章5節)と答えました。
イエスは同時に、船の右側に網を打ちなさいとすすめましたので、そのとおりにすると、引き上げられないほどの魚が網にはいるのです(同21章6節)。
かつて 同じような状況がありました(ルカの福音書第5章1節から11節)。
それは、イエスが宣教を始められた最初のころのことでした。シモン・ペトロを弟子にするときの話です。ゲネサレト湖畔でのことでした。
そのときもペトロが夜通し働いても収穫が全くなかったのです。それでもイエスの言葉に従って網を下ろすと大量の魚がとれたのです。
ペトロはその出来事を見てイエスの足もとにひれ伏して「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものなのです。」(ルカの福音書第5章8節)と言いました。
ペトロの口からそのような言葉が発せられたのは、おそらくもともとイエスの説教を聞き、なされた奇跡、信じられない事態を見て、イエスの姿に何か異次元の聖なるものを感じ取り、疑心暗鬼ながらもイエスを神の子、聖なる存在として関心を持っていたのでしょう。
ペトロは、聖霊に満たされたイエスが醸し出す、未知の聖なる存在に触れたときに誰でもが感じる不思議なカリスマを本能的に感じ、己の罪深さを思い知らされそういう告白となったのだと思います。
そのうえで大量の魚が獲れると言う奇跡を目の前にして、思わずそういう言葉が口から出たのでしょう。
その場にはヤコブやヨハネもいました。
イエスはそういうペトロに言われました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(ルカの福音書第5章10節)と。これがイエスの宣教活動の初めの出来事のひとつであるペトロへの召命と言われている個所です。
このように、ペトロは、人間が素直なのか、かねてからイエスの説教を聞いていて弟子になりたいと思っていたのか、
イエスから召命を受けると、仕事の中であるのにすぐに網を捨てて(家族はなく身軽であったのでしょうかね)、イエスについていったのです。
よく考えてから決断するというタイプではないようです。それとも、かねてからイエスについていきたいと思っていたのでしょうか。
わたしが思うに、ペトロはかねてからイエスに関心をもっていた。ついていきたいとも思っていたが「わたしのような罪深い者はだめだろう」と思い決心がつかなかった。
そういうときに今回のような出来事があったので、そういう返事になったのではないでしょうか。
誰でも権威ある絶対的な神の前では身を堅くし、緊張を強いられても仕方がないと思います。だから神に出会った人は神の行動があって初めて行動できるのでしょう。人間が行動して神が働かれるのではないのですね。
ペトロはこの時近寄りがたく、遠くに感じていた人が一挙に身近に感じられるようになったのでしょう。
さて、ヨハネの福音書21章に戻りまして、15節でイエスは「・・この人たち以上にわたしを愛しているか」と問いかけられるのです。
イエスは人間の本質を見抜いておられました。そのうえでこの言葉をかけられたのです。わたしたち人間は弱い者です。
自分では愛していると思っていてもいざとなったら我が身かわいさに反対の行動をとることが多いのです。どんなに愛していても人間の決心なんて弱いものです。
ペトロが答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と。
同じ問いが三度なされ、同じようにまたペトロが答えます。イエスの三度の同じ問いかけにペトロは悲しくなりました。
このペトロにイエスは、再度「わ たしの羊を飼いなさい」(ヨハネの福音書21章15節)と召命の言葉をかけられるのです。
ペトロはこのときは本当にイエスを愛していたのですね。だからイエスの言葉がいらだたしかった。こんなに愛しているのに先生は分かってくれない、ですね。
ペトロにイエスがこのような言葉をかけられたのは、おそらく、神であるイエスは、人間の罪に、弱さに触れられたのでしょう。
その言葉は、ペトロを本当に強くするために必要であったのだと思います。神であるイエスに人間の傷口に直接触れられ癒されることが、イエスがいなくなった後、召命に生きるペトロにとって必要なことであったのだと思います。
それは、わたしたちの罪、すなわち、おごり、プライド、根拠のない自信など、すなわち自己中心的な性質、そういったものに神であるイエスに触れられて、
自己の罪深さを思い知らされて、ペテロが自ら神に従いたいという願い、自分の力に頼らず、自分思っているものに頼らず、自己のすべてを神にゆだねて生きるという信仰をひきだしてくださった。こういう風に考えたいと思います。
ペトロはこの個所以外でも、マルコの福音書第14章27節から31節を見てみますと、
27節、「イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』/と書いてあるからだ。」
29節、「するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。」
30節、「イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」」
31節、「ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。」
このようにイエスは弟子たちに、自分が捕らわれた時あなたたちはわたしにつまずく(イエスを捨てて逃げる)と予告されました。
ペトロに対しては、今夜、つまり自分が捕らわれて鶏が二度鳴くまでに三度わたしを知らないという、と予告されました。
イエスが捉われて最高法院の裁判を受けているときのことです。大祭司に使える女中らの「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」と言われて、
ペトロはイエスを知らないと鶏が二度鳴くまでに三度言ったのです。イエスの預言が実現したのです(マルコの福音書第14章68節・70節・71節)。
ペトロは、このあとイエスの予告を思い出し、いきなり泣き出しました、とあります。(72節)
また、ほかの弟子たちもイエスが逮捕されたとき、巻き添えを食うのを恐れて逃げてしまいました。(マタイの福音書第26章56節)
イエスの予告はすべて実現したのです。このような弱い弟子たちですが、弱いと言いましたがわたしたちと同じ人間、神はそのような弱い弟子たち、ペトロを用いてどのような迫害にも負けない強い福音伝道者とされたのだと思います。
« キリスト教は教えの宗教ではない | トップページ | カテゴリーの説明 »
「おじさんの聖書」カテゴリの記事
- 終わりの日の約束(2)(ミカ書5章)(2023.10.01)
- 終わりの日の約束(1)(ミカ書4章)(2023.10.01)
- 神の世界審判(イザヤ24章)(2022.10.17)
- 主の僕の召命(イザヤ42章)(2022.10.17)
- 善いサマリヤ人(2018.01.02)
コメント