迫害の原因
この2000年間のキリスト教の歴史をみると、キリスト教は迫害の中を生き残ってきた宗教といえると思います。なぜキリスト教がこれほど迫害されるのかを今回は考えてみたいと思います。
聖書の神は人格の神です。自由と愛の神です。それは、ヨハネによる福音書第14章20節の「かの日には、わたしが父の内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたにも分かる。」と言われているように、
イエスは十字架により殺され復活し天に昇るがそのかわり聖霊(三位一体の神の三位格)を送りあなた方の内に一緒に住む、そしてあなた方を導くといわれました。
これは使徒あるいはその後今日まで続く代々の信徒に言われているのです。これは神の約束ですから、イエスを信じる者には誰にでも与えられます。
このように、信徒一人一人がその身にイエスの御霊を宿し、イエスと人格的に交わる、これがキリスト教信仰で、このように自分の心の中に存在するイエスの御霊を体験し、信じて生きているのがクリスチャンだと思います。
このように目に見えないものを信じているクリスチャンを宗教的な権威や、政治組織に依存している人達が自分たちの思う通りに支配しょうと思ってもどうしょうもありません。
人の心の中までは、どんな権力者も自由に支配できません。キリスト教は仏教のように修行をするとか神道のように儀式を重んじる行いの宗教ではないのです。
ましてや、御霊の存在を信じない、御霊の働きを知らない人達は、その意味が分からないがゆえに不気味さを感じると思います。
また、クリスチャンにとって、聖書の神は唯一であり、救いの道も唯一と教えられていますからなおさらです。この世の真理で、絶対者(少なくとも信者はそのように信じている)を信じているのですから妥協の仕様がないのです。
ただし、間違っては困るのですが、宗教としてのキリスト教はこの世のものですから、相対的なもので妥協は必要かと思います。愛の神は頑なになりなさいとは言っておられません。
だから、世の統治者からみればそういうクリスチャンは最も警戒すべき脅威の対象になると思います。
福音に生き、これを伝えようとする人たちに対して迫害が生じる原因がここにあると思います。宗教戦争が執拗で、残酷さを伴うのもそのような事情があると思うのです。
クリスチャンが迫害されるもう一つの理由は、仏教も神道も敬ったり、礼拝する対象が誰の目にもはっきりしていると思うのです。自然とか、仏像とか、死者とかですね。
また、仏教という宗教は、おそらく人間(釈迦は人間ですね)から出たものだと思いますので、その時代に臨機応変に適応できるのですが、キリスト教は神から出た宗教なので、絶対なのです。
もちろん、絶対といいましても、イエスの教えである隣人を自分のように愛しなさいとか、敵をも愛しなさいとか、柔和でありなさいはすべての人との関係で言われています。
したがって、絶対というのは、たとえどのような状況にあろうとも、聖霊を自分の内に留めて、その導きで生きることを求められているということだと思います。未信者にイエスの教えを押し付けるようなことは求めておられません。
したがって、どうしても信者同士が集まるようになります。そのようなクリスチャンの集まりを世間から見れば異質な存在になるわけです。
目には見えないイエスの御霊の働きに導かれて、お互い助け合いながら愛し合いながら仲良く暮らしている、価値判断基準が世間とまったく反対の集団があればそのような集団を外から見れば異質になるわけですね。わけのわからない変な集団になるのですね。
だから、もしも世の人たちが、クリスチャンを迫害するとすればそれはそのためであって、クリスチャンが、時の政府に反抗するからではないと思います。
クリスチャンが内に宿すイエスの御霊、聖霊は、イエスのみ言葉を信じる人間に内住し、その人間を新しい人間に造りかえようとされているのです。そのような人々の集まりが教会です。
つまり、イエスは教会という新しいイエスのワールド、つまりイエスの支配圏をこの世に広めようとされているのです。
人の心に深く根付いている、生ける神イエスという目に見えない存在がその人を支配するのですから、誰もその支配権を奪えません。時の権力者が支配できない場がそこにできるのです。
そのようなクリスチャンが世の人々に仲間を増やすために福音を伝えるのですが、そうすれば当然摩擦が生じます。
だから迫害が起こるのだと思います。世の権力者からみればわけのわからない不気味な集団の教えが、世間に広まればそれは恐ろしいものだと思います。
人格の神の御霊を内に宿し、そこからくる御霊の導きによる良心に従った愛と自由による新しい組織は、時の権力者にとって、そういう人種がはびこることは、特権や既得の利権や支配的な立場を脅かすことになるということだと思います。
それでも、取るに足らない存在であれば問題はないのでしょうが、時の権力者が恐れるほど大きくなり無視できない存在になったから迫害が起こるのです。
キリスト教の歴史をみると、迫害があればある程さらに大きくなる現実が見られます。不思議です。
しかし、クリスチャンから世間の自分たちへの迫害を見れば、それはすべて神の御心、ご計画であり、神が必要であってなされていることだといえます。イエスはそのことを生前に予告されています。
イエスは、マタイによる福音書第10章16節で「・・いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。
だから、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」といわれていますが、狼とはこういう権力者や宗教的な指導者、つまり、信徒を迫害する人たちのことだと思います。
イエスに従う者に、「蛇のように賢くなり、鳩のように素直に」なるようにといわれているのです。なにも、時の権力者と戦えとは言っておられません。敵を愛せよと言っておられます。
迫害や困難に強くあるためには、勇気と忍耐が必要ですが、勇気と忍耐は人の努力や意志の力では知れています。それは、生ける神主イエスの御霊にすがり、御霊の導きと共に歩む時にのみ強力なのです。
体験してみなければ分かりませんが、これは本当のことです。しっかりしたキリスト信仰を持った人は、本当に強いです。迫害の中で信者が増えていったのはそのことを証しています。
このようなことを書いているわたしですが、現実にそのような場面が自分に迫ってきたらイエスの言われるようにできるかと言われれば、心もとないところがあります。今からそのようなことを心配しても仕方がないし、その時になれば、イエスの御霊、聖霊が働かれて強い信仰と勇気を与えて、共に戦ってくださると思います。
パウロは、 イエス・キリストという目標/到着点を目指して、競技する選手のようにひたすら走りなさいと勧めています(フィリピの信徒への手紙第3章12~14節)。
もちろん、到達点は、イエス・キリストに似たものになることです。そのためには、人間の努力、自己との闘いもありますが、最終的にはそういうことを乗り越えて御霊の働きに己を委ねる姿だと思います。
一切を父なる神のみ手に委ねている姿、わたしはその姿がクリスチャンの目標とする姿ではないかと思っています。
そうなれば、迫害や困難など所詮この世のこと、その人にとって何の意味もなさないということでしょう。弟子はその師のようになれば、それで十分です。
マタイの福音書第10章28節「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」
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