キリスト教は外国の宗教
キリスト教はなぜ日本には定着しないのでしょうか。外国の宗教だからでしょうか。確かにキリスト教は外国の宗教です。聖書は翻訳されたものが伝わっています。
しかし、よく考えると、キリスト教はそもそものはじめから翻訳の宗教なのですね。キリスト教の聖典である聖書の生い立ちを調べてみますと、キリスト教のもととなる聖典はギリシア語で書かれていたということです。
キリスト教の最初の使徒とと呼ばれる人たちは、ユダヤ人でした。彼らは、ヘブライの神を父なる神とするイエス・キリストをギリシア語で伝えました。ユダヤ教の聖典はヘブライ語ということです。
調べてみると、彼らはヘブライ語をギリシア語に訳した聖典を使って福音を伝えたということです。その真偽は知りませんがそのように書いてあります。
この翻訳された聖典を用いることは、ローマ・カトリックでも、ドイツでもフランスでも英国でも、アメリカでも、もちろん日本でもまったく変わらないということです。
こうしてみると、キリスト教はどこの国でも、はじめは外から来た翻訳の宗教だったということです。
それにキリスト教が、聖書が生まれたのはイスラエルですが、イスラエルはユダヤ教です。だからキリスト教には国籍がないのです。どこの国でもキリスト教は外国の宗教なのです。
この様に考えると、キリスト教は最初から世界宗教になるべくして生まれたという風に考えられます。キリスト教の教えは真理だと言う面からみれば当然のことかもしれません。
そのキリスト教がときたま傲慢だとか不寛容だといわれます。世界宗教である、いやこの世の真理であるキリスト教が傲慢、あるいは不寛容とはどうしたことでしょうか。
真理というものはそんなに傲慢でしょうか。キリスト教の愛はそんなちっぽけな、安っぽいものでしょうか。
たとえば、マザーテレサの例を上げますと、マザーテレサはインドで貧しい人たちのために奉仕活動を始めました。
今は天に召されたマザーテレサは、ヒンズー教徒であれ、仏教徒であれ、イスラム教徒であれ、キリスト教徒であれ、死の間際にあるひとりひとりのために、それぞれの宗教でみとってあげるように配慮したということです。
マザーは、主イエス・キリストの父なる神を信じていました。それでも、あらゆる宗教の人たちをそれぞれの宗教でその最後を全うさせるようにとりはからったのです。
これは、マザーに内住するイエス・キリストのみ霊、聖霊からくるキリストの慈愛がそうさせたのだと思います。だからこそ、マザーが召天したときに、なんとヒンズー教の国インドが、彼女のために国葬を行ったということです。
これがイエスのいわれる愛の本当の姿だと思います。キリスト教徒もイスラム教徒も同じ人間です。同じ神の被造物です。慈愛の神が同じわが子を平等に愛されないわけがないと思います。アメリカ人も日本人も同じです。
両国ともキリスト教は外国の宗教です。そういう意味で、現在日本に伝わっているキリスト教は欧米化されたキリスト教ですから、日本化されたキリスト教があってもおかしくはないと思います。
よく問題になるのは、救われる人間は最初から決まっているという考え方です。聖書を読んでいると確かにそのようにも思えるところがあります。それに全ての人が救われるなら神が人間に与えた自由は崩壊します。
イエスを信じるのも信じないのもその人の自由だから伝道に意味があるのです。いままで命をかけて伝道してきた人たちは何のために苦労したのか意味がなくなります。
最初から救われる人と救われない人が決まっているのなら、はたして神は創造する人間の行く末を最初から決めて創造されるのでしょうか。慈愛の神が地獄へ人間を送るために人間を創造するでしょうか。
すべての人を平等に愛される神がそのようなことをするでしょうか。人間でさえ自分の子供を分け隔てしないで育てようとするのですよ。
わたしは地獄と言うところは、サタンのために造られたところと思っています。けっして、人間の行くところではありません。
地獄へ行く人は、イエスの約束の言葉を知りながら、あるいは知らないのに知っていると言いながら頑なに受け入れようとしない人(ヨハネの福音書第9章41節)、あくまで自分が神のようになりたいと思いイエスを拒否した人だけが地獄へ行くのではと思っています。仏教徒であれ、イスラム教徒であれ何ら差別は無いと思います。
このようにキリスト教は最終的にすべての民族を導く宗教だと思うのです。だから、どの国から見ても外国の宗教で世界の宗教なのだと思うのです。
それはキリスト教がこの世の真理だからです。キリストの教えは、特定の国、特定の民族に対する教えではなく、すべての民族の、すべての国のための教えだから真理なのです。
真理は絶対です。だからキリストの教えは曲げられません。でも、真理もこの世にあれば、宗教となり相対的になります。絶対的な教えを相対化すると言う問題が起こります。
その方法は「隣人を自分のように愛しなさい」と言うイエスの教えの実践です。これは、万人に対して述べられた命令です。このようにして、絶対なるキリスト教は、相対化されるのだと思います。
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今からご不快に感じることを、お書きしてしまうかもしれません。大変申し訳ありませんが、書かせていただきます。
マザーテレサについては、私が申し上げる必要がないほどその献身的な行いは有名である、尊敬すべきであります。私自身も彼女と天国でお会いしたいと願っていたものです。…………つい半年前までは…………
実は先日マザーテレサの信仰について学ぶ機会がありました。その際、マザーテレサはカトリックの教えに疑問を感じたことがこれまで無かったとおっしゃってたそうです。
ご存知のとおり、カトリックはマリア崇拝という名の偶像崇拝をしており、その大多数の方が、クリスチャンとは言えない方々であります。
そして、そのカトリックの教えにマザーテレサは疑問を感じたことが無かったということですので、もしかしたら天国ではお会いできないかもしれません…………
先日知ったことですが、衝撃的でしたので、お伝えしておきます。
投稿: 曙 | 2016年3月13日 (日) 00時20分
題 : マザー・テレサさんのこと
.
マザー・テレサさんが、初めて、インドの社会に入って行っ
た時は大変でした。
彼女にあったのは自分の志(こころざし)だけ。
彼女を受け入れたのは、インドの「ヒンズー教の方たち」で
した。
彼女の活動のための家を貸し、彼女の活動のための手助けの
人達が駆け付けました。
元々、マザー・テレサさんのやりたい志の事は「ヒンズー教
の方達はしていました」。
だから、正確に言えば、「マザー・テレサさんが、志を同じ
くする人たちの中に入って行った」なのです。
ヒンズー教の方達は、多神教。
イエス・キリストやマリアもヒンズー教の神々の一人として
いる宗教。
この様な宗教教義の面からも、マザー・テレサさんもスムー
ズに受け入れられました。
一神教のキリスト教には「異教徒を殺せ」の教義がある様に、
異教徒を忌む宗教ですので、この様なスムーズな受け入れとは
ならなかったでしょう。
マザー・テレサさんは、最初、キリスト教からは、まったく、
孤立無援。
手助けはヒンズー教の方達だけでした。
彼女が、アメリカの映画の題材にされ、注目されるようにな
って後、キリスト教が、今までは何も彼女に注目せず、手助け
もしなかったが、世界の注目を集める様になってから、彼女と
行動をする様になった。
今、キリスト教は、彼女を「広告塔」にしていますが、そし
て、ヒンズー教の方達は黙っていますが、真実は、この様な経過
をたどった。
マザー・テレサさんが「ノーベル平和賞」を受賞しましたが、
同時に「ヒンズー教の方達も受賞すべき」でした。
ノーベル賞選考委員はキリスト教徒だけ、その点、「お手盛
り」となった。
インド政府は、彼女が亡くなられた時、国葬として大きな葬儀
を行ないましたが、キリスト教組織にも、この様な、大きな度量
が欲しいところです。
また、彼女のキリスト教は、ビンズ‐教との共同生活から宗教的
にも影響され、彼女独特のキリスト教となっている。ヒンズー・
キリスト教とか、テレサ・キリスト教と呼ぶべき形となっている。
参考URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /
URL: http://32983602.at.webry.info/
投稿: 今田 遥 | 2012年8月 8日 (水) 13時06分