クリスチャンとして生きる
イエスを信じ洗礼を受けクリスチャンになっても、教会を離れていく人はたくさんいます。しかし、理性的に判断してイエスの教えを拒否して離れていく人はいないと思います。でも、教職者とか教会の過ちの歴史につまずいて離れていく人はおられます。
おそらく、そういう人は、神を見ずに教会とか教職者を見て信仰生活を送っておられたのだと思います。教職者も人間ですからイエスの教えを完全に実行できているとか限りません。
間違いも犯します。教職者も色々ですから、当然教会も色々です。だから、通常クリスチャンは自分の肌にあった教会に集うものです。したがって、人間を見て信仰生活を送ればつまずくことは当たり前です。
そういう理由でなければ、離れていく人は、仕事・家庭・数々の誘惑に負けて何となく離れていく人がほとんどだと思います。
このように、イエスの教えが間違っているとかを理由で教会を離れていく人はいないと思うのです。だから、いったん離れてもまた舞い戻ってくることが多いのです。
わたしが思うに、それはイエスの教えが真理だからだと思うのです。真理は絶対に理性的には否定できないし、人間は真理を求めるように造られていると思うのです。
教会もクリスチャンも未熟で成長段階にあると思うのです。けっして、完成されているわけではありません。
だから、教会のクリスチャンの未熟な今の姿だけを見ているとキリスト教に躓いてしまうと思うのです。クリスチャンは、イエスの言葉を心に留めて、イエスを見て生きていく、これが大事なのですね。
イエスは言われました、「人は、全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得になるだろうか」と。
全世界を支配する権力を手に入れても、永遠の命を失ったら元も子もないということでしょう。それほど永遠の命を得ることは大切だということです。
もちろん、この聖句で言う死とは肉体の死ではなく霊の死です。つまり、霊の生命体を得ることがいかに大切かを言っておられると思います。
この人生の何よりも大切なことは霊の生命体を手に入れ、永遠の命(神と共に生きることができる命)を得ることで、そのためにはイエスの約束の言葉を信じ受け入れなさいと言われていると思うのです。
イエスを信じたら、聖霊がその人に内住すると聖書は約束しています。そうすると人間と神の意識が一体となり神を身近に感じるようになる。
そして、永遠の命を得ることになる。人間の生まれ故郷は、創造である神の下ですから、その生まれ故郷に帰るのが自然なのですね。
聖霊が内住するといいましても、神とは自分とはかけ離れた超越的な存在と思っていては、、そう思って外から神を見ていても聖霊が内住するという現実は絶対に分からないと思います。これは現実ですから体験するしかないと思うのです。
異次元におられる神と人間、創造主と被造物、これは互いに異質だということです。この断絶は絶対的です。そうでなければ、絶対者である本当の意味での神とは言えないでしょう。
そういう絶対的な異質である人間と神との関係を突き破って、神が神であることをやめず、人間も人間であることをやめずに両方を結ぶ、この事を成就するために神でありながら人間となって地上に来られたのが「神のみ子イエス・キリスト」なのです。
そのイエスの言葉(神の言葉)と出来事を伝えるのがキリスト教なのです。したがって、キリスト教とはイエス・キリストそのものなのです。イエスが神の子でなければキリスト教はあり得ません。
わたしたちが、イエスの約束の言葉を受け入れるということは、その約束の言葉をイエスと共有することでイエスの内に神を見る。
つまり、イエスは神の言葉をそのまま語られているわけですから、その言葉をイエスと共有するということはイエスを通して神を見ることになるのです。
すなわち、イエスにあって、人間は初めて神との間で真の意味での交わりを持つことが可能になったことを意味します。
人間が人間であることをやめないで、また、神が神であることをやめないで、互いに交わりを持つようになるために、イエスは十字架でご自身のすべてを犠牲にして、人と神とを1つに結んでくださった。
断絶していた人間と神の交流が始まったのです。この世に神の支配がはじまったのです。
もちろん、創造主である神の方からの一方的なアクシヨンですから、これは恵みです。被造物である人間からは絶対に出来ないことです。
なぜなら、罪と言うのは創造主である神に対する罪ですから、罪を赦す権限を持つのは創造主である神だけです。
人間は神から見れば被造物であり放蕩息子である罪人ですから、被造物であり罪人である人間が自分の罪を赦すことはできません。
神の霊、聖霊がイエスの約束の言葉を受け入れた者に内住されるということは、人間と超越した神が生身の肉体的な存在であるわたしたちの内に宿るということになります。
これはわたしたちの理解を超えた神秘であると言えると思います。キリスト教の奥義です。
そういう意味で、イエスは、神が神のままで人間の内に宿られるという不思議な現実をつくりだすために、神から人間に向けられた言葉であり神の意志ということになります。だから、イエスは神の言葉が具現化した存在だと言うことです。
言葉には、言葉を発する人の意志がこもっています。神の言葉は神の意志でありエネルギーです。それがイエスになったのです。
クリスチャンは、自分の中に神の言葉であるイエスと同じ霊、すなわち聖霊が内住し働いてくださっていることをいつも期待して、また意識してイエスの言葉を心に留めて毎日を暮らしています。これが、クリスチャンの信仰生活だと思います。
絶対的な神の霊が共におられるから、クリスチャンには、自分がどのような状態にあろうが、守られているという不思議な安心感があるのですね。
聖書には、ダメなわたしの内にもイエスは聖霊となって、今もなお生きてわたしの心の内に働きかけておられることを教えてくれます。
神の言葉に、聖霊の働きにすべてを委ねて生きる。それがあるがままに生きるということ。
なにしろ全能の神が導き守ってくださっているのですから、その方は、すべての出来事を用いて益としてくださるのですから、安心してその方に人生のすべてを委ねて生きる事ができる。
益としてくださるとは、すべてのことを働かせて悪いことも良いことに変えてくださるということ。そういう摂理で神はこの世を支配されているのです。
だから、この世の出来事がどれほど矛盾に見えても、どれほど予想外の出来事が起こっても、偶然は一つもないと言えます。もちろんその世界は、神の意志100%、人間の意志100%が実現する世界なのです。
あるがままだから、きどる必要も自慢する必要もない。もしも何か人よりも優れたものを持っているなら、それは神からの賜り物。自分が偉いからでも優れているからでもない。
だからそれらの与えられた賜物を、人生を生きる上でいかに用いるかが問題になるのだと思います。聖書には、その賜物を土の中に埋めて全く活用しなかったので裁かれた人の物語があります。
多くの賜物があるならあるように、賜物が少ないなら少ないように、与えられた賜物を精一杯活用して生きることをイエスは求めておられます。あるがままに生きるのです。
それが、神がその人に望んでおられることだと思います。
だから自分の頭の悪いのを悔んでも仕方ない。自分の生まれた環境が悪くても仕方がない。それは神がわたしに望まれた環境です。
その中で神は精一杯生きろと言われているのです。こうして、わたしは自分言い聞かせています。
どんなに体が衰えても、命が生かされていると言うことは、まだこの世に生きることを神が求めておられるということですね。それが試練の人生であっても、その試練の体験はきっと来世においてわたしのためになるように変えて下さる。
このようなことを書いた本がありました。
アメリカのハーバード大学で信仰者の死について、統計を取ったら、信仰を持っている人の死亡率は低く、回復も早いという結果が出たと言うことです。
これは何を意味するのでしょうか。また、信仰の厚い人は、やすらかな死後の世界を信じて末期の苦しみに耐えることができるだろう、とも書かれていました。
最後にコエルケゴールの言葉を書いておきます。
クリスチャンは、たんに固定的にクリスチャンなのではなくて、つねにクリスチャンになろうという道の途上にある存在だといっています。
これを言い換えると、自分の本来の姿は基本的には分かるのだけれども、にもかかわらずまだ罪の誘惑が起こってくるので、それとつねに戦いつつ自分の正しい姿に少しでも近付こうと努力するということです。
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