何が幸せか(2)
「何が幸せか(1)」からの続きです。
聖書には、マタイによる福音書第6章33節、34節を読みますと、神の義と神の国を求めたら、後のことはすべて与えられると書いてあります。
神の義と神の国とそれ以外のことには因果関係があるのですね。どのような因果関係でしょうか。それは心の状態ではないかと思います。
衣食住、健康、人間関係など外的環境的なものと心の喜び・平安とを取り上げてみたら、後者の心の状態が原因になって、ほかの外的なものがもたらされてくるという考え方です。
先の聖句の、神の義とは、天国でなされていること。神の御心ですか。マタイにおいては「神の国」を求めることは「神の義」を求めることに他ならない。
そして、「神の義」とは「神に受け入れられる義」、すなわち「それによって天の国に入ることができる義」であると思います。神の義とは、神の正義、神の御心、聖書の言葉となります。
マタイによる福音書第6章34節の、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。
この言葉は、明日の心配が絶えない現実の生活者にとって、慰めに満ちた知恵であります。言い換えれば、「明日のことを心配するな。なぜならその日に何が起こるか、お前には分からないからである。
あるいはお前は明日生きていないかもしれない。そうすればお前は自分のいない世界のことを心配していることになる。」と言っているのです。
何よりもまず求めるのは、天の国に入ることができる義、それは、「人間は次の世も生きる。そこで幸せになるためにはイエスの約束の言葉を信じなさい。」ということではないでしょうか。
人間はその義を求めて得ると、次の世、天国につながる永遠に生きる命に確信が持てる。そうすると、この世の物的なものは結果として付いてくる、という教えではないでしょうか。
だから明日のことまで心配する必要はない。明日のことは、あなたを作られた神様に委ねてらよい。
人は次の世での幸せに確信を持つと、この世に生きる意味を見出す。虚無感は失せ、絶望感が減少し、心は平安になる。心の底から嬉しくなって、喜びが増します。
この喜びは、歓喜という感情に近いものです。この働きは、神の霊、聖霊がその人に内住することによりもたらされるということです。
これはわたしの実体験でもあります。
イエスの約束の言葉を信じ、心にとどめれば聖霊が内住すると聖書には書いてあります。これは超自然的な話ですが、クリスチャンなら誰で得もが経験していることだと思います。不思議ですが本当のことです。
もちろん、ローマ帝国に迫害されても次から次とイエスを信じる者が起こされ、喜びと平安の中で死んで行った信徒に働く聖霊と同じ聖霊です。聖書を読む者に働かれて、御言葉の真理を教える聖霊と同じ聖霊です。
心が喜べば、心が歓喜すれば、この世の物的・経済的な面でも成功しやすくなってくると思います。
明るい人には、心の健康な人には人が寄ってくる。類は友を呼ぶという諺の通りになります。
経済的なことも必要ですが、心の健康な人は経済的にも恵まれているといいますか安定している人が多いのも真実かと思います。このことは、現実の世で多く経験できることだと思います。
そのようになるのはなぜかと言いますと、すべて神の祝福である、ということになります。
こうして考えると、自分は死んでお終いではないという、来世への希望を持つことがいかに大切かということを考えさせられます。
教会では、感謝という言葉をよく使います。感謝とは、自分が対面しているもの、自分を取り巻く環境すべてを、「ありのままに」素直に受け入れる心理状態だと思います。
自分は生かされていると思うから生かされていることに感謝が生まれる。そうではないでしょうか。生きていると思えば、不満ばかりが募ります。
被造物は創造主に守られて生かされ、必要なものを与えられていたら、その恵みの多少に不平を言わずに感謝すべきだとおもいます。
この世で得た物的物理的なものはすべてそれらを造られた神様からの預かりものです。死ぬ時に返すべきものです。所詮人間は被造物です。被造物は主役にはなれません。創造主の手の中で生きるしかないのですから。
神様は、素直な心を喜ばれます。子供のようにありなさい、とも言われています。
そうすると自然と何事にも感謝する心と喜びが生まれるのだと思います。それ以上のことは欲というものだと思います。与えられたものを持って足るを知るということでしょう。
テサロニケ人への第一の手紙第5章16~18節に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」とあります。
祈りなさいというのは、たえず神とコンタクトをとっていなさい。そうすることによって、喜びと感謝がわいてきますよ、ということでしょうか。
どんなときにも感謝しなさいとうことは、恐らくこの世を生きていくには苦労は多いけれども、意識して何があっても感謝していれば人間関係も物的関係もうまくいきますよという意味でしょうか。
ほとんどの方は、人生のむなしさを、辛さを快楽とか権力とか名誉とか物的なものを追及することで紛らわしているのではないでしょか。
それらのものはいくら追及しても、達成しても達成できなくても後には空しさだけが残ります。そうして幸せを感じても一時のことです。
快楽の追及が行き過ぎたら、時には、家庭の経済的破綻に至る例もあります。そのような気持ちで、わたしもたまにはクリスチャンではない友達に聖書の話をするのですが駄目ですね。
わたしたちは何者で、どこから来てどこへ行くのか、そういうことを考えようとしないのですね。
人生の意味を考えるなんて面倒くさいと言う雰囲気ですね。もういい加減この世のことに執着するのをやめたらと思うのですが、お金儲けと遊ぶことばかり考えています。
だけど聖書は大部で読むのが大変ですね。それに考えさせられることが多すぎます。聖書ももう少し簡単であればよいのですが。といっても、教えの内容は簡単なのですがね。
わたしのように何事も疑問を持ち探究するのが好きな人間にとっては最適なのですが、わたしの周りのクリスチャンは、もっと単純にイエスを信じているようです。
余り疑問を持ったり、探求したりしない人が多いようです。わたしみたいな人間は少数派かも知れません。
あるクリスチャンに聖書の疑問点を質問しましたら、そのようなことは天国へ行けば分かります。という答えが返ってきました。
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コメント
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初めまして、何が幸せかを拝見させていただきました。
還暦を少しすぎても人生に迷うことばかりです。久しぶりです、聖書の言葉を読ませていただきました。人生経験のある内容で色々反省することばかりです。本当に何が自分にとって幸せか、色々考えても、一度、天国へ行ってみなければ分からない。帰れるなら一度は行って見るのもいいのかもしれませんね。
投稿: nt3 | 2015年9月24日 (木) 01時21分