何が幸せか(1)
人間はこの世が終わればすべて終わりでしょうか。それならば何が幸せでしょうか。
財産を築いても、地位とか名誉を得ても、悪いことをしても死んだらお終い。善いことをしても何も報いはない。
したい放題に生きて死んだらお終い。そのような人生が幸せだろうか。それとも、来世への希望を持って生きていくことが幸せでしょうか。
聖書は、人間が幸せになるためには、神(創造主)とともに生きることだと書いてあります。その人生はこの世から始まり来世に至る生き方です。
ある意味、人が幸せとか不幸を思うのは、心の中でその人が形成したイメージではないかと思うのです。置かれた状態を幸せに思うかどうかは人それぞれなところがあると思うのです。
ある本で知ったのですが、人が物を見ているのは、その人の眼の網膜に写った状態をそのまま見ているわけではないのですね。
その網膜像を、視覚連合野に送られ他の感覚器情報の影響を受けながら、視覚を統合し形成します。つまり加工して見ている像のイメージを創るのですね。
その加工は、対象に持っている過去の記憶を選択的にあつめて。憎い人には憎い要素を選び出して、他のものを切り捨ててやっているのですね。で、それをその人だと意識して対応しているのですね。
見ている対象のイメージに対応して見ているということです。不思議なことですね。今見えてる対象は見たままではないのですね。物を見るためには、複雑な作業がいるのですね。
こうして考えてみると、いま見えていると思っている世界も本当は正確ではないかもしれない。人を好きになればあばたもえくぼに見えるのはそういう理由なのでしょうか。
そのようにして見ている世界は物的・物理的な世界です。その見えてる世界が絶対に確かだと思っていても、脳で加工されイメージされた像が見えているというなら、同じイメージでみる世界、つまり目に見えない世界である信仰の世界があってもおかしくはないですね。
物理的世界は、人間は死んだらおしまいの世界です。栄枯盛衰常ならぬ世界です。人間は、物理的には肉体が死んで消滅してしまいます。肉体は火葬されたら目に見えなくなるのですから死んでお終いのイメージは強烈です。
それでは目に見えない世界で、人間は来世も生きるということを信じることができたらそういうイメージが持てるというか見えるようになる。
前記の物が見える目の仕組みを考えればそのようなことがあってもおかしくはない。
キリスト教の歴史では、来世に希望を持って迫害にあい死んで行った人が無数におられます。
その人たちは恐らく目に見えない世界、死後に起こるべきことに強力なイメージをもち、来世への希望に確信を持ったのでしょう。死んで行く時も顔は平安であったといことです。これは現実です。
ここではっきりしているのは、来世に希望が持てれば、恐れとか不安がなくなるということです。来世に希望を持つことが現世を生きる上で幸せだということでしょう。
現世での置かれた状況により十分にあり得ることです。現世に未練を、執着するものを持たない人はなおさらでしょう。
人間死んでお終い、その先は何もないと分かれば、反射的にわたしは何のために生きているのだろうか、何のためにこんなに苦労をしているのだろうか、と思うようになると思うのですが。そこには、生きることの空しさとともに漠然とながらも死への不安があると思うのです。
もし、来世に希望を持てるとしたら、そのことを心底信じることができれば、きっと、死への不安とか生きることへの空しさは消えると思いませんか。なぜなら来世のために今があると思えるようになると思うからです。
現世に、存在するものすべてに意味を見出そうとする。人間は、何にでも意味を見出すのが好きな動物です。そのように造られているのですね。そして、意味があれば安心するのです。
わたしたちの周りにある草木にもその存在に意味がある。共に生きとし生ける命があるのです。そのような意識で草木を見ていると、あるときには草木の命が輝いて見えるときがあります。愛おしく思う時があります。
聖書では、肉体を脱いだ死後の幸せと、この世の幸せとの両方を人間が得られることを願っています。そしてこの世でイエスを知ることで得られる幸せは死後の幸せにつながっている。
この世の幸せを考えると、まず、衣食住など物的・経済的な条件が足りること。そして、肉体の健康、さらに、仕事場での人間関係、家族との人間関係、友人との交友関係も良好であることが必要でしょう。
人は所詮一人では生きていけません。それに、精神的なもの、心の安定・平安・喜びなども必要でしょう。
健康で、人間関係に恵まれ、経済的にも安定していて心は平安な状態がもっとも幸せな状態ですか。そして言えることは、経済的な問題を幸せと感じるかどうかは人それぞれですが、心、精神的に幸せかどうかが最大の問題ではないでしょうか。
心が不安定であればいくら経済的に恵まれていてもやはり不幸と言えるのではないでしょうか。その反対、つまり心が平安であれば経済的に恵まれていなくても幸せはあると思います。
問題は心なのですね。その心の平安を得るためには生きている意味を見出すことが必要だと思います。そのためには、次の世も生きること、次の世での幸せを信じるのが一番手っ取り早い。
通常人は日常のこと、地位とか名誉とか財産を得ることに忙しくて死んだ後のことなど考えません。理屈では人間は死ぬということは分かっていますが、自分のことだという実感が持てない。
だから生きていけるところがある。そういう人も年をとり社会から遠ざかり体が衰えてくれば分かってくる。それでも次の世があるなんて考えようとしない。日本人は特にそのように思います。諦めが先に来るのですね。
そのような人でも青年のときは人生を考えたと思います。長い年月の間に心が硬くなってしまったのでしょうか。
聖書では、すべてを求めるのではなく、何が一番大切かを説いています。それを得たら他のものはすべて与えられると書いてあります。それが、次の聖句です。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である。」(マタイによる福音書第6章33節、34節)。次回に続きます
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