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2011年4月27日 (水)

聖書と艱難

東日本大震災で被災時のエピソードが毎日のように新聞に書かれています。他者のために命を捨てられた方がなんと多いことでしょう。

たとえば、津波を知らせるために最後まで車で走りまわり、波にのまれた人、津波警報を呼びかけながら波にのまれた人、きっと、その時のその方々の心の中は、不安や死の恐怖はなく、ただ他人を助けなければという思いだけだったのでしょう。

多くの人が他者を助けようとして津波にのみ込まれて亡くなった人が多いということです。


自分の命が危ないと言う時でも、他者のこと、弱い人々のことを先に考えられたのですね。イエスのこのような言葉があります。この言葉をそのまま実践されたのでしょうね。

「父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイによる福音書第19章19節)
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネによる福音書第15章13節)

その方々は、何もキリストの信者でもない方です。それでも、キリストの教える最大の愛を実践されました。きっと、その方々の霊魂にキリストの霊が刻まれているのでしょう。

他者を助けようと夢中になったとき、きっと、その人の心には不安など無かったと思います。「人は自分の身を守ろうとするとき不安になるが、他人を助けようと必死になったときその不安は無くなる。」と言う言葉は真実だと思いました。

また、次のような聖句があります。この聖句によると、そのような方は、たとえ生前にキリストを知らなくても、その人の霊魂がキリストを知っていると言えます。きっと、裁きの日には大いなる報いを受けて天国へ招かれると信じます。

ローマの信徒への手紙第2章13節から16節

13節「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。」
14節「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。」
15節「こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」
16節「そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」

命が助かった人でも、信じられないような偶然が重なり助かった人も多くおられます。
たとえば、このような記事がありました。

「車で逃げるところを津波にのまれてしまいました。1キロくらい流されましたが、幸運にも車が海に浮いてくれていたんです。

救出までの一晩中、後部座席で泣きじゃくる息子を抱きしめ続けました」と語り我が子を見つめる母親。「東北へたまたま出張中に地震に出会った人」、「東北からの帰りの新幹線を降りた時に地震にあった人。」などなど・・・。

被災者も本当は泣きたいのに、叫びたいのに、冷静に助け合いながら不自由な毎日を暮らしておられます。

「奪い合えば足りないが分かち合うと余る」と言う言葉がありますが本当にそうですね。食糧危機が叫ばれている今日ですが、奪い合うよりも分かち合えば十分世界中の人々が食べていけると思うのです。

今回の震災で改めて気付かされたことがもう一つあります。クリスチャンにとっては当たり前のことなのですが、それは、人は生かされて生きているということと人は他者のために生きるとき初めて心の平安を得、生きていることの喜びを知ると言うことです。

人が生きているということが多くの奇跡的な偶然の上に成り立っているという事実です。もちろん、その奇跡的な出来事は、神の御計画、神の御心だと思います。

最近は、被災された方々の中に、「自分が死ねばよかった」「なぜ、わたしが生き残ったのだろう」と御自分を責めておられる方がいると聞きますが、死んでもよい命など一つもないと思います。

生き残った人は生き残るべくして生き残ったと思うのです。反対に亡くなった人は亡くなるべくして亡くなったのだと思います。

この世で生きるかあの世で生きるかの違いです。神様から見れば、人間が生きているのも死んでいるのもその人間の御計画の中の一こまにすぎないのではないでしょうか。

この世だけの命ならばそうではないかもしれませんが、わたしたちの命は、来世をも生きる命だから、そのように考えてもおかしくはないのではないでしょうか。

生き残ったからと言って、罪悪感を持つ必要は何もないと思います。それは創造主である神様が生き残るようにされたからだと思うのです。神様は、あなたは生きなさいと言われているのでしょう。

それに、地震が神様の御手の内で起こったのなら、亡くなった方は神の御心ゆえに亡くなったと言えないでしょうか。

そうであれば、きっと今頃は、神様はその人に平安を与えられ、傷ついた心を癒やされていると思います。
誰でも人間には、明日のことが分かりません。誰がいつどのような災難に遭遇するかわかりません。

明日は我が身です。でも生き残った人は、少なくとも、今、生かされている。生きなさいと言われていると思うのです。だから、先行きは見えなくて真っ暗でも、この一瞬一瞬を大切に生きなければと思います。

きっと、そうしているうちに希望の光が見えてくると思うのです。神は人間に艱難を与えますが、同時に救いの道も用意されていると思います。このような聖句があります。

ローマの信徒への手紙 第5章3節と4節「・・苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」
この聖句は、全てを失った方々も命があれば、当面は忍耐が必要ですが、必ずや希望を持てる日が来ることを教えています。

被災者の方のほとんどは着の身着のままで、命だけが助かったと言う方が多くおられます。

明日を考えるとどうして生きていけばよいのかわからないと言っておられる方もおられます。このような聖書の言葉があります。この言葉を信じたいと思います。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。

あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリントの信徒への手紙一 第10章13節)。

今回の震災は、わたしたち震災に遭わなかった者に対し、大きな犠牲を払って神様は何かを教えようとされているのだと思うのです。わが身に起こったこととして、謙虚になって考えてみたいと思います。

最後に、今回の震災で、修羅場において大切なことは、他者へのやさしさと誠実、共に生きるという心ではないだろうかと思いました。

そこには、国家も民族も入る余地はない。問われているのは、個人個人が他者とどのように関わって生きるかという問題だけだと思うのです。

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コメント


   失礼します。
  
   「聖書」によって―――(38歳のとき)

  「アル中を癒され」「脳梗塞より生還」「倒産によるサラ金地獄」
より、御言葉によって「癒され・救われた者」の「証」です。  
     
 こころを強くする「メッセージ」のご案内
      http://www4.ocn.ne.jp/~kokoro/
     
        ご笑覧ください。     安達三郎

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