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2011年3月28日 (月)

東日本大震災を思う

東北関東大震災、大変なことが起こりました。言葉も出ません。ただ頭を垂れて亡くなられたすべての人に神の祝福がありますように、と祈るのみです。

避難所においては、人の多くは家族や親しい人を失い、悲痛な思いで寒さとひもじさに耐えながら毎日を過ごされていることと思います。亡くなられた方のご遺族の心痛を思いますと言葉もありません。

この巨大地震は千年に一度の大地震ともいわれています。先に投稿しました「自然法則と信仰」と重複する部分もあると思いますが、ここでは今回の震災をどのように捉えるべきか、聖書から見てみたいと思います。


このわたしたちが住む宇宙は、神様が自然法則をもって支配されています。また、ときには必要により自然法則によらない出来事、つまり奇跡を起こされることもあります。

何事によらず、この世で起こることは、神様が積極的に介入されるか許されているかのどちらかだと言うことです。自然法則により起こるべくして起こった出来事でも、神様が許されなければ起こらないということです。

地震にしても、これは自然法則の結果だと思いますが、プレート型であれ断層型であれ、そういうことが起こるように地球を造られたのは神様です。

もし、神様が積極的に介入されたならば、最初の一撃は神様で余震を含めて後の出来事は自然法則に委ねられていると言えるのではないでしょうか。

ということは、今回のような地震は、積極的な介入かどうかは分かりませんが、神様が許されているから起こったということになります。そうであれば、今回の大地震は神様のわたしたちに対する警告だということになります。

そうすると問題は、今回の出来事に遭遇したわたしたちが、この出来事をどのように受け止めるかではないかと思うのです。

もし、今回の出来事を被災住民に対する神の天罰と受け止める方がおられたら、それはとんでもない間違いだと思います。イエスは次のような言葉を残しておられます。

「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。

「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。

言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々より も、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。(ルカの福音書第13章1節から5節)

このイエスの言葉にもあるとおり、もし今回の大震災が神の警告であるとするならば、それはいま地上に生きているすべての人々に、少なくともわたしたち日本人全員が被災者と同じ立場で受けるべき試練であり警告だと思うのです。そう言う意味で、被災者は日本人すべての人々が受けるべき試練を引き受けたといえます。

したがって、震災に遭遇しなかった人が、自分が被災者にならなかったことを感謝したり、被災者に対する天罰だと考えるならば、それはとんでもない思い違いだと思います。

だから、政府が復興資金をどうして捻出するかをもめているようですが、日本人全員が負担して捻出すべきものだと思います。日本人が国を挙げて被災者を支援すべきだと思います。神様は日本人に隣人愛を、これからの在り方を試されておられるのかも知れません。

このイエスの言葉は、調べてみると、当時のユダヤ人にとって大変な出来事であった総督ピラトによるガリラヤ人の虐殺が報告されたときに、イエスがお答えになった言葉だということです。

ここでイエスはローマ軍による虐殺という歴史的な事件と(おそらく地震による)塔の崩壊という自然災害を取り上げて、その災禍に遭わなかった人たちに、自分を災難にあった人と同じ立場において悔い改めなければ、

すなわちその災難による警告を自分に向けられたものとして聞かなければ、国民すべてが滅びることになると警告しておられるのです。事実、イエスの警告を無視したユダヤ神殿国家は40年後に滅びました。

今回の大震災が、日本人に対する神の警告であり試練とするならば、わたしたち日本人は、自然はコントロール出来るものと甘く見て、自分たちの技術を誇り、富だけを追い求める、恐れを知らない民族になってしまったということではないのでしょうか。

福島第一原発の地震による事故も、二週間を経た今でも解決が見えない状態だと言うことですが、神様の警告だと受け止めることも必要かと思うのです。

そうですね、原子力の制御を甘く見てはいけない、あるいは、将来の原発による大災害を警告されているのかもしれません。そうであれば、人類全体が受けるべき警告と言えます。

日本は、神を否定する進化論万能の国です。しかし、今回の大震災で、これだけ科学が発達しても、自分たちはなすすべがない、無力な存在だと思い知らされたのではないでしょうか。

絶対に大丈夫だと言われてきた最先端の科学技術の塊である原発が大惨事を起こしたのです。人間のすることに絶対はないと言うことを肝に銘じるべきだと思います。

これからの防災の在り方にしても、自然を力で支配(現実にはとてもできないことだと思いますが)しょうとするのではなく、自然災害を受け入れて、その上で恐れを持って謙虚に対処することを考えるべきではないでしょうか。

信仰的には、今回の災禍は、わたしたち一人一人が、自分の身に降りかかったこととして、謙虚に受け止めるべきだと思います。

この大震災で、なにを神はわたしたち一人一人に語りかけようとされているのでしょうか。一呼吸おいてこの辺で考えてみるのも良いことかもしれません。

反省すべきところは反省して、そろそろ、繁栄と富を追い求める生活を修正すべきところに来ているように思えるのです。

最後に、震災(3月11日)から二週間をすぎて思うに、今回の震災は世界中の国々、民族に大きな影響を与えました。100カ国以上の国々から日本民族に、また被災者に支援の手が差し伸べられています。温かい言葉もいただいています。

特に原発事故は世界中の原発を推進している国々に衝撃を与えました。また、大変な災難に合ったにもかかわらず被災者が冷静に隣人を思いやるながら困難に耐えている姿が良い意味で世界中に驚きを与えました。

こうして今回の震災を見てみますと、原発は世界中の原発を推進する国々に警告を与え、日本はもとより世界中の人々に隣人を愛する心を呼び起こさせ、被災者の冷静さと隣人を思いやりながら絶えている姿は、

よい意味で驚きを持って世界中に迎えられて、日本人に誇りを持たせました。世界中にそのような日本人の存在を知らしめました。

こうして見てみると、今回の震災による神様の御心が見えるように思います。被災者はそのために被災者になられたのです。神様に選ばれて被災者になられたのです。

亡くなられた方は、きっと次の世で癒されるでしょう。被災して困難な生活を強いられている方は、きっと、神様の救いの手を差し伸べられると思います。

聖書が語る神は、警告の神であり、裁きの神でもありますが愛の神であり、救済の神でもあります。どのような時でも、共にいてくださる希望の神でもあります。

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コメント

東日本大震災のみならずいかなる出来事も神と関係ありません、神との因果関係はありません。自然現象は自然現象です。
神が望んでいるのは、「ある人にある不幸な出来事が起こったなら、それは私にも起こり得ること、、私に起こったことは、いかなることも、私だけの出来事ではなく、私たち全部に関わる出来事、全人類の出来事ということ、あらゆる出来事の瞬間において、人間は個人であるとともに人類であり、人間はいかなるときも支え合う存在である。」ということを人が知ることです。
聖書の中で、例えばルカ21章などで、災害を刑罰とか、あるいは神の怒りとか表現している箇所がありますが、表現内容を強調するために、激しい言葉となっているだけで、その言葉だけを注目するのではなく、内容全体を理解すべきです。私は、人があらゆる災害を直視し、自分のことと自覚し、隣人愛と正しい信仰を持つよう、イエスは切に求めているのだと思っています。

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