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2011年3月 1日 (火)

キリスト教は聖霊の宗教(1)

イエスは十字架にかかられる前に弟子たちに語られました。ヨハネによる福音書第14章26節「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」。弁護者と言うのは、聖霊のことです。

したがって、聖霊のことを、イエスの御霊とも言い、肉イエスが地上でしょうとされていたことを世界中でなさんがために霊となられたイエスです。

ヨハネによる福音書第16章 4節「しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」。


次に、人間を罪の中から救いだすために、十字架と復活と伝道という方法しかったのか、なぜ神はそのような方法をとられたのでしょうか。

聖書では、神とイエスは親子関係ですが、その創造神から親の目線で人間を見てみると、もし自分の罪を認めないのに一方的に許せばそれは単なる親バカです。

そこには子供への愛はありません。自分勝手な行動をしている子供を放任しているだけです。それではろくな子供にならないし、親の意見も聞く耳を持たないこともが出来上がります。

やはり罪を許すためには、最低限、親と向き合い、親の言葉を聞こうと、理解しょうとする気持ちがなければ、親が何を言っても馬耳東風です。

それではその子の成長は望めません。神は、あなたたちはわたしから離れては生きてはいけない、と言われているのにそのことも分からず人間は放蕩息子をやっているのです。

神は、人間がこちらを向くのを語りかけながら待っておられるのですが、それも気の長い話でその人が死ぬまで待っておられます。根気よく。侮辱されようがののしられようがまっておられます。

けれどもけっして強制はされない。弟子となった人に対しては、ただみ言葉(イエスの言葉)を伝えるだけでよいといわれています(マルコによる福音書 第16章 15節「それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。)。

たしかに、自由意志をもつ人間が神を知るのも時があると言えるでしょう。時があるからイエスの言葉は伝えるだけでよい。説得するのは、理解させるのは神の仕事だと言うことだと思います。

神は強制的に人類を罪から救わずに、罪の中に埋もれる放蕩息子の状態をそのままにしておいて、その中に個人から個人への伝道という方法でイエスの言葉を信じる者のワールドを造ろうとされているのです。信じるか信じないかの選択を人間の自由意志に任せてです。

こういうことですから、不条理と不法が満ちる人間世界はこの世界が終わる時まで続くのでしょう。サタンはこの世の最後の最後に地獄に放り込まれますのでそのときまで続きます。

そのときまで人間の苦しみは無くなりません。不条理も不法も無くなりません。これも霊的成長のためといいますか、新しい人間の創造にとって必要なことなのでしょう。

艱難の最中におられる方は神も仏もあるものかと言いたくなりますが、コリントの信徒への手紙一第10章13節にこのような言葉があります。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」

人生の試練は、神がなされることではない。それは人間が選んだ自己中心的な生き方から来る当然の結果。しかし、神は人間が試練にあい苦しんでいるのを許しておられます。

何も人間が苦しんでいるのを見て喜んでおられるのではなく、それもわたしたちにとって必要なことでご計画の内と心得ます。だから、試練の先には必ず救いが、平安があることを信じてこの世を生きていきたいと思います。

もちろん、この世で報いがなくても次の世ではきっと報われると思います。

自由意志で人間は神から離反したのですから、自由意思で神のもとに帰るべきです。それが神の義です。きっと、そうでなければ神も人間を罪の中から救うことが出来ないし、新しい人間の創造には欠かせないことなのでしょう。

自由意志を含めてこの世のすべては神の言葉により創造されたと聖書にはあります。神の言葉は一旦発せられたら取り消しはできないし絶対にそのようになる。もちろん、訂正もできません。

キリスト教は、この2000年間イエスの言葉を伝えようと個人から個人へ伝道をしてきました。その原動力は、イエスの約束の言葉を信じた者は、自分の信仰体験を語らずにはいられなくなるという事実です。

それはまさしく聖霊の働きでもあるわけです。ですから、キリスト教会では、信徒一人ひとりがイエスに出会った証を大切にします。

イエスも言われています。使徒言行録第1章8節「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」。

そのように考えれば、衝撃的なイエスの十字架による死と復活、それにイエス昇天後に弟子の伝道の助け主として来られた聖霊の存在は、まさに見事と言うほかありません。

イエスが肉体のままであれば、イスラエルという限定された一地域での働きになるが、聖霊は霊ですからこの地球上に遍在して人間一人ひとりに臨機応変に働くことが出来ます。

ヨハネによる福音書第12章 24節で「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」とイエスも言われています。この言葉は十字架にかけられる前、生前に言われているのです。

イエスの十字架以降2000年がたちます。それでも、世界的に見ても、日本ではなおさらイエス・キリストを知らないでこの世を去る人がほとんどです。

したがって、わたしのように全員救済を信じる者から見ると、イエスが再臨される終末と言われるこの世の終わりは、まだまだ先のようにも思います。

聖書には今すぐにでもイエスが再臨されるようなことも書いてありますが、それは迫害と言う厳しい状況の中で信徒を勇気づける必要により書かれたのではないかと思います。

こうして考えると、神の歴史、いや人類の歴史は、新しい天地と新しい人間の創造のためにあると言えないでしょうか。(ヨハネの黙示録第21章)

神が一旦発せられた言葉は、必ずそのようになるのなら、何があろうが神の国は到来するのですから、人間一人ひとりの人生は別にして、人類の歴史は、神による出来レースと思いませんか。

おそらく十字架も復活も神の最初からの御計画による出来事だと言えると思うのです。もちろん、御計画とはそれら十字架の出来事も含めて人間を罪の中から救い上げ、新しい人間の創造することだと思うのです。

イエスがこの地上に来られて、聖霊がこの地上に降ってから、その新しい人間を創造するプロセスは既にキリストを信じる者の中で始まっています。すべての出来事が新しい人間の創造のためにあると心得ます。

イエスはサタンに勝利したが完全に滅ぼされなかったので、サタンはまだこの地上を自由に動き回っていて人間を誘惑し続けていますが、この世の終わりにサタンは地獄に落とされるのです。

サタンをそれまでこの地上に放置されているので、人間の苦しみが絶えませんが、きっとサタンにも新しい人間の創造のために必要な大きな役目があるのではないでしょうか。

つまり、神のご計画のためにサタンも用いられている、そのこともすべてご計画の中に織り込み済みだと言うことです。

人間一人ひとりは人生においてその時その時を自由意志で選択して生きていますが、神はいつも一人ひとりの人生を新しい人間の創造のために導かれています。

人間は神の意向に沿って人生を選択するとは限りませんが、でも、人間がどのような道を選択してもその結果を神はご存じなので、その人間の人生におけるすべての体験を用いて御心に沿うように最終的には導かれる、その働きをされるのが聖霊である。わたしはそのように信じています。

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