キリスト教は聖霊の宗教(2)
新約聖書は、イエスの弟子が神の霊感を受けて書いたと言われています。では、なぜイエスは自分が書いたものを残されなかったのでしょうか。
なぜ、後のことをすべて弟子と聖霊の働きにゆだねられたのでしょうか。現在の新興宗教の教祖には、自らの行動は知りませんが、教えと言いますか自分の思想を書いた沢山の本を出版しお金儲けをしている方がおられますが、それとは大きく違います。
イエスが書いたものを残されなかったというのは、イエスは字が書けなかったとか、現在の紙のようなものがなかったので書き残すことは簡単なことではなかったとか、
識字率が非常に低かったから書き残す意味がなかったからとか、いろいろと言われていますが、本当にそのような事情なのでしょうか。
そのような事情はイエスを神とするなら余りにも人間的です。自分が書けなければ人に書記を頼めば良いし、ソクラテス・プラトン・アリストテレスなどの書物で、当時書かれたものが現在に多く残されています。
わたしは下記の理由でそうではないと思うのです。
書いたものはどうしてもいろいろと解釈が生まれます。そのために多くの教派が生まれ争いがおこります。自己を正当化するのは人間のもつ罪なる性です。
国家が国をまとめるために宗教を利用しょうとすれば、国家にとって都合のよい解釈がまかり通ります。ときには、その解釈を正当化するために戦争になります。
中には聖書の解釈を独占する人もでてくる。その人が権力と結びつけば、一つの解釈が権威を持ってしまい、その人の解釈は教理となって聖書以上のものになる。
そのようなことは、元来自己中心的な人間には避けられないことです。中世におけるヨーロッパでのキリスト教の混乱はまさにそのような姿であったと思います。
たとえイエスが直接聖書を書いたとしても、それが人間の文字で書かれている限りそういう弊害は避けられなかったと思います。そういう意味で、政教分離の考え方は正しい選択だと思います。
イエスは個人の自由な意志の上に立った信仰告白を大切にされています。聖書は信仰者の信仰告白を集めたものです。国家の法律ではないのです。
道徳の教えを集めた本ではないのです。神とはどういう方か、神を信じるとはどういうことかをわれわれに教えるために、神は聖書という信仰者の信仰告白を集めたものをつくられたとわたしは思うのです。
個人から個人への伝道にしても、イエスが自分の書いたものを残されずに、あくまで人間が信仰によって霊感により書いた信仰告白という方法でイエスの言葉を残されたことを見ると、そこには人間の働きと人間の自由意志を最大限に尊重されている姿を見ることができます。
神を信じることができるのは、罪を示されるのは神の働きでありますが、罪の中から救われたいと神にすがるのは人間の自由な意志だということでしょう。
わたしは、聖書解釈はいろいろあってよいと思うのです。もちろん、キリストを信じる最小限必要なこと、たとえば、イエスが神の御子であるとか、十字架とか復活の出来事などを否定されては困りますが。
聖書は人間が霊感を受け書かれました。その解釈は聖霊の働きにゆだねられました。聖霊は聖書を読むものに働かれる。
働かれる対象は個人ですから、聖書を、イエスの約束の言葉を読む者は、読んで得られた解釈は聖霊の導きにより、自分に語られていると受け取ることが大切かと思います。
聖書は信仰者が現実の社会(迫害とか戦争)の中で、イエスの言葉を聖霊の働きの中で実体験し、確信をもって書かれたと思いますから、人間にとってこれほど身近なものはないと思います。
したがって、聖書の内容が時代背景を反映しているのも当たり前だと思います。
あくまで信仰は個人と神様の関係だと思うのです。そこには仲介者など必要ありません。信仰というものは、上から強制するものでもないと思うのです。
人間にとって自由意志はそれほど大切なこと。それは神の御心です。おそらく霊的成長を図るのには人間を自由意志のもとに罪から救い導くことが必要なのでしょう。
この世は、次の世への準備のためにあると何かの本で読みました。次の世では高校も大学もある。この世は小学生の段階だと書いてありました。そうかも知れません。
人間を罪から救うみ業にしても一番簡単な方法は神の力により人間の心を強制的に自分に向けさせ一方的に救えばいいはずです。
しかし、神はそうされなかったのは、神の人間救済のみ業の達成には、人間が自ら神のほうを向き神に助けを求める必要があるからだと思います。そうであって初めて人間は新しく生まれ変わることができる、といえます。
人間はアダムの時に自分の意志で神から離れてしまいました。そうであれば、自分の意志で神のほうを向き直す必要がある。これなど当たり前だと思うのです。
人間を罪の中から救い、来世の復活につながる新しい命を与えるためには聖霊の働きが必用なのですが、きっと、人間が自由意志で神を選び神に救いを求めなかったらその人に聖霊は内住することができず、神との交流ができないのではないかと思うのです。
神は、み言葉(イエスの言葉)の伝達を人間の手に委ねられました。
このことからもわかるように、信仰を持つかどうかはあくまで人間一人ひとりが聖霊の導きの下に自由な意志で選択するべきだということではないでしょうか。
ただ、神は一つだけ、誰にでも見える衝撃的な方法をとられました。
それが、イエスの十字架と復活の出来事です。もちろん、その出来事が神の御業と信じるには聖霊の働きが必要ですが。
これはまことに衝撃的な方法でありました。事実その出来事は今でも廃れることなく述べ伝えられています。当時の弟子たちに命をかけるほどの、人生を変えるほどに強烈なインパクトを与えました。
そのことは、ヨハネによる福音書第12章32節に「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」という十字架に架けられる前のイエスの言葉がありますが、この言葉がそのことを示していると思います。
もちろん、「上げられる時」というのは十字架を指します。
「引き寄せる」が救うという意味なら、最後の審判は不要であるし、死をかけての使徒の伝道も不要であります。したがって、ここは、「すべての人がイエスに心がひきつけられることになる」という意味であると解釈します。
そういう出来事がなければ、イエスの三年間の伝道と信仰者の伝道だけで、キリスト教は今日まで存続できたでしょうか。疑問に思います。それだけなら、信仰宗教の教祖と同じです。
イエスは神から預かった約束の言葉を伝えよといわれましたが、決して強制しろとは言われていません。
強要とか説得する必要はない。伝えるだけでよい。そして、あとは聞く者の意志と神の霊である聖霊の働きに委ねなさいと。これを宣教命令と言い、次の聖句がそれを示しています。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を述べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」新約聖書マタイによる福音書第16章15節。
この聖句にあるように、述べ伝えなさいといわれているだけなのです。このように、強制はされていないのですが、イエスを知れば聖霊が働きその人は喜びのあまり自分の体験を他人に伝えたくて仕方なくなるのです。
上手くできていると思いませんか。それがキリスト伝道の原動力だと思います。人間は真理を知れば、嬉しくなる、ほかの人に教えたくなるのです。
こうしてみると、すべては聖霊の働きによって進められているといえます。マタイによる福音書第12章 28節「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」
この聖句を読むと、神の国と言うのは聖霊に導かれる国と取れないでしょうか。そうであれば、イエスがこの世に来られた時には既に聖霊はイエスの中で働かれているわけですから神の国はイエスの中に来ていると言えます。
神は、人間が本来の姿である神とともに生きる存在に、そして、次の世でも幸せに生きていけるように、霊的に大きく成長することを望んでおられるのではなかろうか。
この世における体験はすべてそのためあると思います。この世の体験で無駄なものは何もないということです。
もしイエスが書いたものを残されてそれにより教えを広めようとされていたら、はたしてキリスト教は生き残ったか疑問です。歴史の中に埋もれて消えてしまっていたかもしれません。
聖霊の働きと言う目に見え無いものなど信じられるか、と言われる方もおられるでしょうが、日本では分かりませんが、それを信じてクリスチャンになった人が無数におられるのは事実です。
キリスト教は目に見えない聖霊の働きにより成り立つ宗教だと思います。
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