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2011年1月 1日 (土)

キリスト教徒と戦争(1)

あけましておめでとうございます。今年最初の投稿文です。今年もよろしくお願いします。
さて大変重い課題ですが、キリスト教徒と戦争についてを二回に分けて投稿します。

悲しいことに、わたしの知人においても、宗教は恐い、宗教が戦争を起すのだと真面目に思っておられる方がおられる。

どのような宗教でも受け入れる日本人はきっと世界の理想を先取りしているのではないかと言われる方もおられます。宗教戦争の世界に平和をもたらすのは日本ではないか、という方もおられます。

そして、例として取り上げるのが十字軍と中東戦争です。イスラム教とキリスト教の戦いです。はたして宗教はそんなに怖いものなのでしょうか。よく考えてみたいと思います。

宗教が、いやキリスト教が戦争を起こすという誤解を解くための一助として、この投稿文を書きました。二回に分けて投稿します。(2)のほうでアメリカとヨーロッパの中世についても少し触れてみたいと思います。

まず、言えることは、戦争を起しているのは真のキリスト教徒ではないということです。欧米のキリスト教国は戦争しているのでは、と言われそうですが、それは国家が戦争をしているのです。キリスト教徒ではありません。

それでもその国家の指導者はキリスト教徒ではないのですかといわれそうですが、わたしはその指導者が戦争を正当化する論理は知りませんが、きっとその人個人なら人殺しなどしないと思うのです。

真のキリスト教徒なら、どのような理由であれ、相手がどのような悪人でも殺しはしません。殺意を持って人を殺す者はキリストの弟子(キリスト教徒)ではありません。聖書にはこのことが明確に書かれています。

イエスを信じる人でも、善なる人でも国家を動かす一員になると人殺しをするのです。わたしは思うに、これはひとえに人間が造った国家に限らず社会制度自体が罪を生み出す制度であるということを現していると思うのです。

この世界は、人間の社会は、何事も絶対は有りません。すべて相対的だと言うことです。人間の造った制度も相対的です。

このように書くと、自分が罪を犯すのは国家のせい、社会のせいと言い逃れをしているようですが、現実にはそのようなところが大いにあると思うのです。

罪を憎んで人を憎まず、と言う言葉がありますが、その言葉はそういうことを言うのだと思うのです。

イエスは一度も人を殺しなさいとは言っておられません。「隣人を自分のように愛しなさい。」、「自分に危害を及ぼす者のために祈りなさい」と言っておられます。

また、イエスは「剣を取る者はみな剣で滅びる。」(新約聖書マタイの福音書第26章52節)とも言っておられます。

それでも中世においてキリスト教徒は殺人とか戦争に深くかかわってきたではないかと言われると思いますので、そのことについてちょっと書いてみます。

たしかに、国家と聖職者が一体となった国では、自分たちの地位とか権力を守るために聖職者も魔女狩りなどと言って殺人を犯し戦争もしてきたのは事実だと思います。

だから、わたしもできることならその聖職者に尋ねてみたいと思います。

その聖職者が、罪を悔いあらためて、イエスの十字架と復活を信じイエスの約束の御言葉を守る者ならば殺人を犯したり戦争をするというのは考えられないのです。

ただ言えることは、その聖職者は罪に誘う悪魔の力に負けた、としか言えません。

幾ら偉そうに言っても、人間とはかくも弱い者だということです。もちろん、キリストを信じない人々も同じだと思います。そうでしょう、歴史を見ればイエスの言葉を貫いて殉教した信仰者も大勢おられるのは事実ですから。

キリスト教徒とは何者であるかを確認するために、あらためてまとめてみたいと思います。最初に、人はどのようにしてキリスト教徒になるのでしょうか?

「口でイエスが主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(新約聖書ローマの信徒への手紙第10章9節)。

「信じてバプテスマを受ける者は救われる」(新約聖書マルコによる福音書第16章16節)。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(新約聖書マルコによる福音書第1章15節)。

この三つの聖句を簡単にすれば、「自分の口で告白すること」「罪の悔い改めのためにバプテスマを受けること」「イエスの約束の言葉を信じること」、これがキリスト教徒(キリストの弟子)になるための前提であることが分かります。

この三つの聖句を読んでもらえば分かるように、口とか心でと言っているように、ひとえに個人の問題です。このようにキリスト信仰は、個人が自由におかれた状態で、明確な意志としての信仰告白することが大前提なのです。

キリスト信徒の家庭とか、キリスト教国に生まれたからキリスト教徒になるとか、深く考えもせずに、イエスの言葉を信じてもいないのに信者になるというようなことは、聖書からするならばあり得ないことです。

最初は信じているか否か不確かな面があっても、すくなくとも、そこに真理があると思い信じようと決心しているはずです。

信仰は、国家と神ではありません。あくまで個人と神の問題なのです。教会に行っているから、奉仕をしているから、献金をしているからでもありません。

個人の心の問題なのです。もちろん、牧師が進めたから、あの人が信じたから、親がキリスト教徒だから自分もではないのです。

1人ひとりがよく話を聞き、よく考え、そして自分の意志で自由に決断し信仰に入る。それがキリスト教徒の信仰だと思います。

イエスは、後の時代に不法を行うキリスト教徒が多く出て来ることを予告しました。次の聖句はそのことを指す毒麦の喩えです。

「ある人が良い種を畑に蒔いた。人々の眠っている間に、敵が着て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。

芽が出て、実ってみると、毒麦が現われた。僕(しもべ)たちが主人のところにきて言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』」・・イエスは答えになった。

「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである」。人の子はイエス、毒麦を蒔いた敵が悪魔、刈り入れは世の終わりのことで刈り入れる者は天使たちである。」(新約聖書マタイによる福音書第13章24節~30節、36節~39節)

解釈すると、約2000年前にイエスが来られて、世界という畑に神の言葉という良い種をこの世に蒔かれました。

その種が実を結び、神の言葉であるイエスの言葉に従う「御国の子ら=キリスト教徒」(御国に属する人たち)を生み出しました。ところが、夜の間に敵である悪魔が世界に入ってきて、毒麦の種を蒔きました。

その結果、御国の子ら(キリスト教徒)の中に、キリスト教徒に敵対する悪い者の子ら(悪魔の子)も混在するようになりました。

畑に良い麦と毒麦が混じっているように、現在の世界には御国の子らと悪い者の子らが混じっているのです。

今悪い者の子らが裁かれずに放置されているのは、良い麦と毒麦を(十分成長するまで違いが分からないから)一緒に抜いてしまわないためであるということなのです。

二種類の麦が十分成長して、違いが明らかになる収穫の時、つまり神の審判の時に、畑の主人であるイエスが僕である天使たちを遣わして刈り入れ、良い麦つまり御国の子らは倉庫に入れ、毒麦つまり悪い者の子らは焼き捨てられるのです。

もちろん、その時には国家とか社会制度、持って生まれたハンデイ、育った環境などその人の責任によらずして罪を犯した者は、

根から悪い者の子ではないので、犯した罪を悔い改めるチャンスも与えられて裁きには十分考慮されると思います。・・これはわたしの個人的な考えですが。

この毒麦のたとえ話は、「そのように、戦争を行うような、人を殺すような、イエスの言葉を守らないで不法を行う者たちも、今は御国の子らの中に混じっているが、彼らは終末時の神の審判によって必ず滅ぼされるのだ」という警告だと思います。
以下、「キリスト教徒と戦争(2)」に続きます。

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コメント

外部から見ると、キリスト教徒は二種類いるみたですね? イエス教徒とキリスト教徒、そう感じます。最近の福音派のキリスト教徒の言動を聴いていると、どうみても、戦争の原因になります。
ハルマゲドン・イエスの再臨・異教への敵も・意憎悪がむき出しになってきています。
そして、それはイエスの思想とは異なっていても、やはり聖書・キリスト教神学に由来する思想です・
黙示録・旧約・マタイヨハネにも異教徒への憎悪があります。
聖書をどのように読むかで変わります。
外部から見ればどちらもキリスト教徒です。
一神教はよほど気をつけないと独善てき排他的な思想になるようです。
外部の人間のりっ直な感想です。

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