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2011年1月 9日 (日)

自分探しの旅

聖書には、人は意味目的をもって創造主である神によって造られた作品である、と書いてあります。人は偶然この世に誕生したのではなく、創造主である神の意思によって意味と目的をもって造られた作品であるということです。

だから、その人と言う作品を完成させるのは、神でありその人であるということになります。神だけでも人だけでもないのです。

人生における色々の悩みの根底にあるものとして共通するのは、みんな生きたい、死にたくないという生きることへの欲望ではなかろうかと思います。

その欲望は、創造主の意思で、生きている人間は例外なくもっているものだと思います。


その欲望が今まで人類を存続させてきましたが、反面この世界で起こっているさまざまな不条理とか不公平および戦争とか殺戮などの原因にもなっています。

人は無意識に生きることの意味と、生きていることの確かな手ごたえを求めているのではなかろうか。

人はその人の存在の根底にある、生きたいという要求によって動かされている。だからその要求を否定されたら、人は生きては行けない。

人生如何にいくべきかと悩むのも、人間関係で悩むのも、人にほめられたいと思うのも、出世をしたいと思うのも、事業で成功をしたいと思うのも、恋人のことで悩むのも、職業の選択で悩むのも、充実した人生を送りたい、

それは、この世における自分の存在を認めてほしいと思うからではないだろうか。わたしたちみんな一人ひとりは、わたしはここにいる、と叫んでいるのではなかろうか。

いじめを苦にして小さい子供が自殺をするのは、それは生きていけないとその子がその時そう思ったからではなかろうか。

生きることの追求は、反面から見れば自尊心の追及ではなかろうか。自分の存在を認めて欲しい、ここにわたしはいると誰もが叫んでいる。

わたしは現役の頃よく言いました。部下の仕事の失敗は指摘して改めさせる必要はあるが、部下の人格を否定してはいけない。それも同僚のいる前では。

人格の否定は、その人の存在を否定することになり、同僚の前での否定は逃げ場がなくなることになるから、その人はそこでは生きていけなくなる。それでもそこから逃げられなければ恨みを残します。恨みは人をゆがめます。

人格の否定は、生きたいという欲求を、自尊心を否定されたことになるのではなかろうか。上司には、仕事の失敗を注意する権限はあっても、人格を否定するほどの権限、その人の生存権を否定する権限はありません。

自尊心というと、悪い面ばかりが浮かびますが、確かに、高じれば自惚れとか傲慢につながると言うことになりますが、健全な自尊心もあることを認めたいと思います。

傲慢になると、弱者のこと、相手のことを考えられないようになります。

人間が傲慢になるのは、自分が造られた存在であること、生かされている存在であること、創造主の下ではみんな平等であることを知らないから、自分が1番だと思うからではないだろうか。

恐れる者がなくなった英雄は古今東西おかしくなるものです。自分を神にしてしまう。

もちろん、そのような英雄の話だけでなく、わたしたち一人ひとりについても、他人よりわたしが上だ、わたしの方がたくさん財産を持っている、という気持ちをもつのも同じことですが、他人との比較での自尊心は満足を知らない。

これらは悪い面の自尊心ですが、良い面の自尊心として、相手の人格を尊重してあげる、あなたは1人ではないことを教えてあげる、ここにあなたを愛している人間がいることを教えてあげる。

これはその人の自尊心を尊重することにもつながっていると思います。

わたしはイエスが言われた「隣人を自分のように愛しなさい」というのはこのことを言われているのだと思うのです。自分を愛するように、すなわち自分を愛せない人は他人をも愛せないと言うことでしょうか。

自分を愛することの裏返しが自尊心だとも言えないだろうか。

人は誰でもこの世に自分が生きたという足跡を残したいものだと思います。

マザーテレサは死に逝く人に、あなたを愛している人間がここにいること、そして次の世があることを教えて、その人に希望を与えてみおくられたのではないでしょうか。

人間、名もなく誰にも知られずに死んで逝くほど寂しいものはありません。

人がある目的の為に創造主である神に創造されたものであるなら、存在していることには目的と意味があることになる。

したがって、人間が生きていることの目的と意味を追求するのは当たり前で偶然ではないと思います。そのように造られているからだと言えます。

もし、人間の存在を、いま日本で常識になっている進化論で考えたなら、人間は自然淘汰と突然変異による偶然の産物となります。人が存在するための人生の土台は、偶然という不確実なものになります。

そこにはその人が生まれなければならなかった理由も、必然性も存在しません。その人はたまたま偶然にこの世に生まれたことになります。

このように、生まれたのが偶然の産物で、生まれる必然性がなかったその人の存在は、その人に取ってこの世はどれほどの価値があるのだろうか。

そのような人に他人を愛せるのだろうか。理不尽な殺戮がおこるのも、人を愛する心を持てないからではないでしょうか。

自分の存在を愛せない人は人をも愛せない、といいますがこれは真実だと思います。

お前なぞ生れなかった方が良かったと言われて育った子供は、自分が大嫌いでしょうがない大人になる。自分は何も出来ないと他人と比べて卑下している人は一歩も前へ進めないと思います。

どのような状況に置かれても、決して自己を大切に思う心は捨ててはいないと思います。自分を大切にしない人は、人をも大切にしないと思うからです。

キリスト教では自尊心を持つことは罪のもとだと教えていると思います。自尊心という言葉を辞書で調べれば、うぬぼれること、高ぶることとあります。そうであれば確かに自尊心は罪のもととなります。

しかし、反面、艱難に耐える力も、努力する、忍耐する力も自尊心があるからとも言えます。そういう自尊心は健全な自尊心というのでしょうか、自分を大切に思う心と言い換えてもよいかも知れません。

自尊心は、人間が人間であるためには必要なことだと思います。

自分を大切に思う心、自分を大切に思えるから他者を愛せるという面があると思いませんか。自尊心も神様がわたしたちに生きていく上で必要だから与えられたと思うのです。

イエスは、自己を捨てて他者を愛する愛の実践を求めておられます。イエスは十字架にかかることによりその愛を自ら実践されました。

イエスが友のために命を捨てることを最も大きな愛だと言われたのは、人間にとって自尊心を捨てることがいかに難しいことかを言っているのだと思います。

自尊心が高じればたしかに罪のもとになると思いますが、イエスは、自分を大切にする心を持つことは決して否定されていないと思います。

自分は自分、他人は他人、しかし、他人と交わることによって、他人を愛することによってはじめて自分が生かされ、成長する。その他人を愛するためには自分を大切に思う心を持つことが必要だと思います。

聖書には、あなたは唯一無二の存在だと書いてあります。神様はあなたを愛しているとも書いてあります。

この世の中で、わたしにはわたしにしかできないことがきっとある。わたしは意味があって、この時代のこの国に、この地域に生れてきた。

そして、わたしの人生のすべてをひっくるめて、それらのことはすべて神のご計画の内にある、ということです。だから希望があるのです。箴言16の9他

そのことを信じて、この人生を自分探しの旅をしょうではありませんか。無目的に生きるより、よほど人生が楽しくなるとい思いませんか。

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