オンリーワンの人生
人が目的と意味を持ってこの世に生まれたのなら、人は1人残らずこの世に存在する価値があるはずです。それは、その人が何かができるという能力以前の問題、存在そのものの価値の問題だと思います。
誰でもがこの世に存在する価値があるのなら、その価値を守ろうとするのが自尊心の原因でもあると思います。
この自尊心は決して傲慢とか自惚れではなく、人間が人間であるために、人間が生存するために必要とする健全な自尊心といえるものだと思います。平たく言えば、自分を大切に思う心と言えるのではないでしょうか。
どのような人も、創造主である神に創造され、支えられ生かされている存在だとしたら、他者と比べるのではなくあるがままに生きればいい。
その人がこの世に意味目的を持って生まれたと言うのならば、その人にはその人にしか出来ない働きがこの世にきっとあるはずだと思いませんか。
創世記1章27節の、「形」という言葉は、イメージと訳せる言葉だということです。だから人間一人ひとりは誰とも比べる必要はないし誰とも同じになる必要はない。
また同じにはなれない。あなたという人間はこの世界で二人といない唯一無二の存在だと聖書は言っています。
あなたを造った、あなたのデザイナーである創造主である神の存在の有無については、科学者の言葉を紹介しておきます。
科学的発見が進めば進むほど、科学者の多くは、有神論的宇宙論を展開するようになってきています。つまり、科学者はこの宇宙の創造者、つまり神の存在を論じています。
英国の物理学者ポール・デイビスの言葉「わたしに見えるのは裏で何かが起っている有力な証拠である。すべてはデザインされているという印象は強烈である。」
天文学者のジョージ・グリーンスタインの言葉、「われわれがすべての証拠を眺める時、何か超自然的な力、あるいはむしろ超自然的な存在が関係しているに違いないという思いが絶えず浮かんでくる。
そういうつもりでなかったのに、我々は、突然絶対者が存在する科学的証拠を発見してしまったのであろうか。」
彼ら科学者は、宇宙の究極の原因が超自然的であり、宇宙はデザインされていることを認めています。
日本の理学博士天野仁氏は、「現在の宇宙物理学は、宇宙工学、生命科学の最前線の研究状況はこれらの研究の到達点として受け取っても何も不思議なことではない。
という段階にきつつあります」(聖書の科学、PHP)と言っておられます。
現在は、ビッグバンによって、宇宙のすべての物質とエネルギー、そして時間と空間の四次元そのものが同時に無から始まったという理論が有力だということです。
この宇宙はこの地球上に人間が存在できるように、宇宙全体がかくも美しく秩序だってパーフエクトにデザインされているのです。
だから、そのパーフエクトな宇宙の一部であるわたしたち自身も、このわたしたちが住む宇宙と同じく、美しく秩序だっていてパーフエクトにデザインされていると思いませんか。
自分もこの宇宙と同じくデザインされた存在の一部分だとしたら、一つの結論に到達することができます。
花が美しいのも、宇宙が美しいのも、犬や猫が可愛いのも創造者の意思のまま、デザインされたまま存在しているからと言えないでしょうか。
創造主とは何者と問われたら、創造主とはそういう感性をもった存在だと答えたいと思います。
だから、わたしの人生に関する限り、何がわたしにとってベストであるかは、わたしよりわたしを造った創造主である神のほうがよく知っておられるということ。
わたしは自分のしたいことを自分の考えで選択して生きるよりも、創造主である神の御心に委ねて生きるほうが良いに決まっているということです。造られた者は造られた目的に沿って生きるのがベストだということです。
ということは、まず自己を創造主である神の前に明け渡し、自我をすてる、いや捨てられないから自分自身を丸ごと神に委ねる信仰が必要になる。
その上で創造主の声を聞きなさいということになる。この世の論理で染まった自分の考えをすべて捨てるということになるのですが、これはなかなか難しいのも事実です。
だから神に助けてもらうのです。それが信仰を持つと言うことではないでしょうか。
自分はどうしょうかと選択の問題で悩む時は、まず、自分は神に造られて支えられ生かされている存在だということを自覚することだと思います。頑張りなさいとか、考え方を変えなさいといっても、そういう自己暗示では人は決して変われない。
創造主の創造の意思は力です。力だからその意思が、聖書で言えば神の言葉が変えてくださる。だから神に委ねれば変われるということです。
選択の基準は、他者と比べるのではなく、何をしたいかではなく、人間社会の多様なかかわりの中で、どのように生きるかであると思います。
人を見るから、人と比べるから心が騒ぐし、振り回される。それが嫌ならオンリーワンでありなさいということでしょう。もともと人間はそのように造られているのですから。
神の導きを信じて、決して悪いようにはなさらないと信じて生きればよいと思います。そうでしょう、創造者は、自分が造った人間を決して不幸にはなさらないと思うからです。
この宇宙を、万物をこれほど美しく秩序立って造られた創造主が、そう、そういう感性を持った創造主が人間を不幸にするために造られるはずがない。
人間が自分の子供を愛するように創造主も自分が造った人間を愛するのも同じだと思います。愛は創造主の感性です。だから被造物である人間も愛する心を持っているのです。
そのように信じて生きても、不幸が押し寄せたら、そのことに何か意味があると信じて、必ず逃れの道があると信じて、必死で耐えて生きるのも人生かと思います。
目の前のことに振り回されて、どうにもならないことを思い悩んで生きるよりはるかにいいかと思うのですが。いかがでしょうか。
自己中心的な自分の気持ちだけで他者とかかわれば良い関係を結べないと思います。
神は人間の内心の意思に語りかけられると思いますので、神の声を聞くということは、わたしの場合、具体的には特別霊的に恵まれた人をのぞいて通常は邪念を払い内心の意思を聞くことだと思いますので、そのようにしています。
強い思いが浮かんだらその思いが神の意思と信じて、その思いに素直になるように心がけています。内心の意思に照らして自分がしたいと思っていることに無理があるならそれは神の意思ではないのではと思います。
神の意思ならば不思議に無理なく思っていることが成就するものだと思います。そこには平安が喜びがあると思うのです。
何事によらず神は出会いに働かれると思います。イエスは、他者と良い関係を結ぶためには、隣人を愛する心をもって他者と交わりなさいと言っておられるように思います。
ルカはこの愛するというのを、慈愛深くありなさいと言っています。隣人を愛することが出来るのも、自分がオンリーワンであることを自覚して初めて出来ることではないでしょうか。
世界人口が60億なら、60億のオンリーワンがいるということです。60億も人間がいれば、わたしはオンリーワンの中のその他大勢だから、やはりわたし一人は何の存在価値もないに等しいと言う方もおられるでしょうが、
聖書を読んでいて思うことは、神は人間一人ひとりを罪から救うことをもって全体を救うことを目指しておられて、全体の救いのために一人ひとりは使い捨てとか、一部の優秀な人間のみを救うために他の人間を犠牲にするというご計画は持っておられません。
それは、イエスの言葉を人から人に伝えることにより一人ひとりを救いあげると言う面倒くさい方法を神は取られているのを見てもあきらかです。
「聖書と人生」カテゴリの記事
- わが人生を振り返る(2013.06.27)
- 人生で道に迷ったら(2013.06.26)
- クリスチャンとして生きる(2011.09.19)
- 何が幸せか(2)(2011.08.04)
- 何が幸せか(1)(2011.08.01)
コメント