キリスト教徒と戦争(2)
キリスト教徒と戦争(1)からの続きです。
前回で書きました、聖書の毒麦のたとえ話は、キリスト教徒といわれる人の中にも、悪い者の子も混じっている。
だから、教会へ行っている人全員が真のキリスト教徒ではないし、キリスト教会は世の終わりまで、常に善人と悪人が混在する種々雑多な人々からなる集団として示されています。
この世の中も良い麦と毒麦が混在して育つ広大な畑であります。キリスト信徒だと主張する人々の中にも、御国の子どもたちと悪い者の子どもたちが入り混じって存在することを教えています。
混在していて見分けがつかないのです。表面から見える罪だけでは判断できないのです。神はその人が悔い改めるのを満を持して待っておられるのかもしれません。
裁きの日には、その裁きに誰も不平不満が言えないようになるまで待っておられるのだと思います。そういう意味で、誰もまだ裁きの判決は確定していないともいえるのではないでしょうか。
こうして見ると、キリスト教会が、あるいは何らかのキリスト教の集会が、教会に集っていないキリスト教徒も含めて、良い麦だけで構成されていたようなことはいまだかつて一度もないということになります。
牧師がどれほど教会を純粋な良い麦だけにしょうとしても、完全に純粋な良い麦だけの集会を保つことは決してできません。
逆に言えば、キリスト教会、キリスト教徒の集まりと言うのはいろいろな人が集まる中でのみ存在し、必要とされるものといえます。
どの教会も、毒麦が良い麦に混じって見いだされるはずです。
アウグスティヌスの次の言葉「きょう毒麦である者も、明日は麦となるかもしれない」には深い含蓄があります。もちろん、その反対もあるということですね。
本当のキリスト教徒は、1人ひとりの明白な意志に基づき、イエス・キリストを救い主と信じ、神と人とを愛する人たちです。
それは剣や銃とは無縁の道であり、かえって剣や銃をつきつけられる人たちです。事実この2000年間、迫害されて殉教した真のキリスト教徒は数知れません。
信徒が、キリスト教ほど迫害にあって殺されている宗教は無いのではないでしょうか。他の宗教にはそのようなことは無いと思います。
もちろん信者1人ひとりは弱い人間でありますから、悪魔に惑わされて過ちを犯すこともあります。
しかし、本当にイエスの言葉を信じているなら、その人には神の霊、聖霊が内住しているはずですから、殺意をもって、自らの意志で銃や剣を取ることなど考えられません。
イエスは、人間は、その悪魔の罪への誘いに簡単に負けてしまうことをよく知っておられて、わたしたちが罪を犯しても悔い改めれば何度でも許すといわれています。人間は過ちを犯す存在だということを知っておられるからです。
悲しいかなこの世は神が支配されているとは言え、悪魔の影響はあまりに大きく、とくにキリスト教徒に対しての攻撃には激しいものがあります。
キリストを信じる者となっても、いつその誘惑に惑わされるかも知れず、ゆめゆめ怠りなくこの世を生きなければならないと思うのです。
わたしは絶対に人殺しなどしませんと言っても、立場が変われば分かりません。
人間は弱い者です。それに一国の総理大臣であれば、攻めてきた国に対し国家を守るためにやはり戦争を命令するでしょう。
この世は、善人ばかりで構成されているわけではありませんから、この平和な日本国でもあり得ない話ではありません。それが人間社会の宿命だと思います。
神はそういうことをよくご存じで許しておられるということです。逆に言えば、神が定められたご計画だと思います。
最後に、現在においてよく聞くのが、アメリカはキリスト教国なのになぜ戦争をするのかということですが、アメリカは、キリスト教徒は多いのですが、決してキリスト教国ではありません。
しかし、アメリカにおいては、ヨーロッパにおける失敗を学び政教分離は守られています。
国家と宗教が一体となっているのはヨーロッパ各国に多いと思います。それに、アメリカは各教派が入り乱れています。
中には創造主としての神の存在は認めるが、イエスを神人と認めない、救い主と見ないでイエスを人類の偉大な教師と見る人々、いわゆる三位一体論を認めない人々もいるということです。
そういう考え方は、ある本で読みましたが、ジョージワシントン、ジエイムス・マデイソンら独立革命の指導者に共通していた考え方だということです。
神観は理神論(合理的に神をとらえる立場)で、ユニテリアン傾向(イエスを子なる神としないで、父なる神だけを信じる)がアメリカ社会の知的な人々に多いということです。
だから、聖書の教えがそのまま通用しないところがあるということです。
反面、ヨーロッパにおいては国家(国王とか皇室と同じ)と宗教が一体であって、国教会があります。現在でも国民になれば居住区域の教会に所属することを求められるということです。
中世において、キリスト教徒が戦争に走ったのは、宗教と国家が分離しておらず一体であったので、国家は宗教を用いて国家を統率しょうとしていましたので、国家の戦争はイコール宗教戦争となったのだと思います。
国家と宗教の一体は古代ローマ帝国の名残だと思います。個人の信仰の自由はそこにはありません。マルチンルターの宗教改革もそういう環境から生まれたのだと思うのです。
信教の自由を求めて大西洋をわたってアメリカ大陸にきた人々は、それでも本国の宗教的束縛からは逃れることができませんでした。
アメリカ独立戦争はそのような状況から逃れるための戦争で、独立宣言は人間解放の宣言であったと理解しています。
もちろん、人間解放の本当の目的は、信じることの自由です。信教の自由を求めてヨーロッパからアメリカにやってきた人々の熱情が,18世紀の民主主義思想を背景にして,イギリス本国などからの政治的自由の追求となり、アメリカの独立を求める革命を起こす力になったと思います。
そこでうたわれたのは、「すべての人間は平等につくられている。創造主によって、生存、自由、そして幸福の追求を含むあらゆる侵すべからざる権利が与えられている。・・・・」とあります。神を「創造主によって」、とありますがイエス・キリストとは書いてないのがみそですね。
イエスは自分が書いたものは何一つ残されませんでした。つくづく思うのですが、言葉が文字になりますといろいろな解釈が生まれます。いろいろな考え方が出てきます。
そして、それぞれが主義主張を通そうとする。国家と宗教はお互いを利用することを考え両者は結びつくようになります。それが戦争を起こす原因となる。
イエスは書いたものを何も残されなかったというのは、きっとそのようなことを見通しておられたのでしょう。もちろん、イエスはだからといってそのままほって置かれるのではなく、聖霊という神の霊を、信じる者の助け主としてこの世に送られました。
その霊は、イエスの御言葉を読む者に働かれ、神の御心を伝えます。信じる者に内住されます。イエスは弟子たちに言われました。
「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイの福音書第28章の20節)。
だから、わたしは聖書解釈も多様性があっても良い、いや、そのようにあるべきだとおもうのです。聖書解釈は聖霊の個人に対する働きを受けてなされるものだと思うからです。
聖書より一つの教理が絶対視されたり、強制されたら気をつけなければならないと思います。
もちろん、解釈は自由と言いましても、真のキリスト教徒と認められる最小限の条件、これを信じていたら真のキリスト教徒だというものが必要です。
それは簡単にいえば、現在でもプロテスタント教会で使用されている使徒信条ではないかと思うのです。
現在でも、信徒へのセクハラなどで問題になっているキリスト教会がありますが、牧師の聖書解釈が絶対(牧師が神になっている)となっていることからそういうことが起こっていると思うのです。
本当に人間社会は、不法と不条理が絶えません。生まれながらの自然の命は罪だというのがよく分かります。弱い人間の中に毒麦がはびこっています。
それが人間社会の有様と言うものでしょう。このような人間社会は、人間の力では(一部はできても)完全には浄化できません。それが出来るのは、人間を造られた創造者なる神のみです。
でもね、毒麦がはびこる畑の中に、真のキリスト教徒が灯す灯火は、人間の歴史が終わるまで、消えることは決してありません。全世界のどこかでこの2000年間輝いてきましたし、今も輝いています。それは人類の希望です。
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