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2010年11月 2日 (火)

キリスト教とは(2)

さて、投稿文「キリスト教とは(1)」ではキリストに属する者とそうでない者を見分ける基準は、その人が聖霊のもつ性質をもつかどうかだと書きましたが、(1)に引き続きそのことを書いてみます。

投稿文「キリスト教とは(1)」では聖霊の三つの性質のうち、「信仰告白」を取り上げましたが、今回は、もう一つの聖霊の性質である復活について書きます。

復活というのは、いったん破滅した家庭とか国が、破滅した状態から再び立ち上がるとかをいうのではなく、神が自分を死者の中から復活させてくださるという来生への希望を言うのだと思います。これがイエスの言われる永遠の命をもつことだと思います。


これは来世で起きることのイエスの約束ですが、現実にはイエスが言われた時点で実現しているのです。なぜなら、神の目から見ると時間は関係なく、神が言われたことは必ず実現するからです。言われた時点で実現したのと同じことなのです。

死者の復活なんて、普通の頭では信じられません。でも、キリストは十字架で死に三日後に死者の中から復活されたのです。これは歴史的事実です。わたしも何度も間違いがないかと聖書を読み考えてみましたが、否定が出来ませんでした。

そしてイエスは、わたしを信じる者は、死んでも生きると言われたのです。ヨハネの福音書11章25節「イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」

わたしとおなじように、わたしが再びこの世に来た時に死者の中から復活させるといっておられるのです。その証拠は、イエス自身が死者の中から復活されたと言う事実です。

それは、創造主である神がなされたこと、神にしかできないことだから信じなさいと言われているのです。

そのことを信じることが来生への希望です。現状がどんなに不条理でも、もちろん幸せであってもです。来世での復活に希望をもってこの世を生きるのがキリスト教徒なのです。

もちろん、来世で復活すると言うことは、この世での人生がどんなに悲惨であっても清算されると言うことです。この世で悲惨な生活を送るのも神のみ業だからです。

幸せな生活を送っている人も、それは自分の力ではなく神のみ業ですから、傲慢にならずに謙虚に、神様を第一に愛しながら、第二に恵まれない人を愛しながら、人生を送りなさいと言うことだと思います。

イエスは、そうすれば、来世には汚れのないきれいな体で復活させてあげると約束されているのです。汚れがないと言うことは、そこは、ヨハネの黙示録第21章4節「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。

もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」のような場所なのです。

もし、このイエスの約束を信じることができたら、それはその人の中で聖霊が働いておられるということです。信仰告白もイエスの復活を信じるのも、誰かのためではなく、強制されるのではなく、その人に内住した聖霊の働きによるということだと思います。

最後の聖霊の性質は、神の愛です。

人間は普通、肉親とか恋人とか、仲間の者、つまり自分にとって利益ある者、自分を愛してくれる者を愛しますが、敵を、自分の不利益になる者を愛することはできません。

新約聖書マタイによる福音書第5章44節に「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」とあります。

イエスは、困っている人、人の助けを求めている人を、つまり、「隣人を自分自身を愛するように愛しなさい」ともいわれていますが、更に「敵をも愛しなさい」といわれました。

隣人を愛するのも、敵を愛するのも聖霊の働きなのです。聖霊の働きがなければ、人間の本性に反することである自分の利益に反する者を愛せるわけがありません。

その者のために祈れるわけがありません。このことをイエスは、人間にはできなくても神には(神を信じたら)できると言われています。

これら三つの性質が、キリスト教徒とそうでない民を区別する基準だと思います。このように書きますと、キリスト教徒はそれらの戒めを全部実践しているのか、といわれそうですが、キリスト教徒もイエスを信じたからといってイエスの戒めがすべて守ることができるということではないのです。

キリスト教徒もこの世を生きる普通の人間ですから、罪も犯すし、人を憎みもします。ただイエスの言葉、聖書を信じていますから、教えと自己の弱さという現実の中で葛藤しながら生きているのです。

イエスを信じる信仰も山あり谷ありです。良いことをしたいと思っても行動できない葛藤の中で生きているのです。

ローマの信徒への手紙7の18でパウロも言っています。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」

なぜできないかは、それは原罪の問題であり、またこの世の支配者である悪魔の問題なのですがその説明は別の投稿文に譲り省略します。

わたしは、信仰というものは人生をかけて育むものと思っています。聖書の言葉を心に抱き、留めて、聖霊の導きの中で、過ちを、罪を犯しながら、もちろん、その都度悔い改めながらでも少しずつ成長していくものだと思っています。

それでは、そのようにわざわざ重荷を負って生きるキリスト教徒の使命とは何でしょうか。それはひとえに世界の人々にあまねくイエス・キリストの福音を伝えることです。

それは、世界のすべての人々が神を知り、神の祝福を受けるようになるためです。そのためにキリストに属する者にイエスは次のように言っています。

マタイによる福音書第5章13節から16節「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、・・。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。

また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のすべてを照らすのである。

そのようにあなた方の光を人々の前に輝かせなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父があがめられるようになるためである。」

この「地の塩、世の光」というのはキリスト教徒のことです。

塩は、食物が腐るのを防ぐ防腐剤の役目を果たしています。調味料としても大切なものです。イエスは、あなたがたは地の塩にならなければならない、と言われています。

世は闇で、腐敗しています。けれども、あなたがたはその中で、希望を照らす光となり、世の腐敗を防ぐ、防腐剤として働きなさい。

あなたがたはそのように無くてはならない存在になりなさいということだとおもいます。あなたがたがそのような存在でなければ、もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけだと言われています。

「世の光」からあとの聖句は、神とわたしたちの関係は、良い行いという形で現れてきます。聖霊に導かれたあなた方の存在は、世の光であり希望です、光は、闇が支配するこの世の中では、隠れることは出来ません。

むしろ暗闇を際立たせることとなります。悪い行いは良い行いに照らし出されることによって明らかにされるからです。

だから、あなたがたは、燭台の下に隠れていて何の意味があるか、わたしは「世の光」である、わたしを見習いなさい、といわれています。もちろん、この「世の光」の光は父である神の光のことです。

聖霊が働くところに従い世の人々の模範となりなさい。そうすればあなたがたがキリストの民であることを知り、世の人々はあなたがたを見習うようになる。それが父なる神の栄光をあらわすことになる、といわれています。

なぜイエスはこのようなことを言われたかを考えますと、その当時の弟子の中にもいろいろな弟子がおり、つまり、イエスをキリストと言い表し、イエスの弟子のように振る舞いながら、自分に都合のよい限度内でしかイエスに従っていない人がいたのだと思います。

そのような人は、イエスを信じていると言いながら、結局自分の利益を求めているだけで、自分を捨ててイエスに従う者ではない。

そのような弟子は塩気を失った塩で、人類の歴史の中で進められる神の業のために何の役にも立たず、神の支配の外に投げ捨てられるだけであるといわれているのだと思います。

先に救われた者(先にイエスを信じた者は)は、先に救われる必要があって神の恵みにより救われたのだから、その役目を果たせないのなら救いの働きの中から外されるのは仕方ありません。

イエスの教えを身近で聞いていた弟子たちも、イエスの十字架を前にして、巻き添えを食うのを恐れて、みなイエスを見捨てて故郷へ逃げ帰りました。

イエスの復活を現実に目で見て、聖霊を体験してはじめて、弟子たちは故郷を捨てて死に至るまでイエスに従うことができるようになりました。

これが人間の現実です。聖霊の働きがなければ、人の信念とか決意では何もできないのです。

このようにイエスが求められているキリスト教徒の生き方は、何と厳しい人生でしょうか。身がすくんでしまいます。誰でもこのようなしんどい人生は送りたくはありません。

キリスト教を信じると言うことはなんとしんどいことかと思われる方もおられると思います。

でも、そのしんどい人生を自ら選らんだ人が世界人口の三分の一以上おられるのです。この2000年間でどれほどの人が信じたか数えきれません。これは現実です。

それは、しんどい人生を自ら選ぶためにキリストを信じると言うことは、喜びであり、祝福であり、いやこの世の真理に出会ったということだと思います。

人は真理に出会えば変えられるのです。そこには何事にも変えられない喜びがあるのです。平安があるのです。

わたしもキリスト教徒のはしくれですが、ささやかながらその喜びを体験しています。

マタイの福音書第13章44節「「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」ということです。

模範にはなれないけれどもせめて未信者の方の非難の対象にならない存在でありたいと思います。そのために、わたしの内で聖霊が働かれて、わたしを導いてくださるように神に祈りたいと思います。

いろいろとキリスト教を信じると言うことについて書いてきましたが、わたしが思うところ、キリスト教は、生涯をかけて信じても決して後悔しないと思っています。

信じてみる価値が十分にあると思います。現世を生きていく上においても、その人生は、キリスト教を知らない人生よりも確信に満ちた、豊かな人生を送れると信じています。

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