キリスト教とは(1)
信者でない方はなぜキリスト教は、あれだけ教派が分かれているのだろうか、なぜ聖書解釈がみんな違うのだろうかとか(といってもわたしの個人的な見方ではほとんど違わないと思うのですが)、と思われることがあると思います。
それで、いつものわたしの癖で、わたしなりにその理由を調べて一応納得しましたので、ここにまとめてみます。
イエス・キリストを信じた者は、いろいろな呼び方をされています。
たとえば、キリストに属する者とかキリストの民とかクリスチャンとかキリスト者とかキリスト教徒、神の子とかキリストの弟子とか。
このようにいろいろと呼ばれていますが、べつにそれぞれ意味が違うわけではないと思います。
その共通するところは、約2000年前にこの世にこられたイエス・キリストの福音を信じて、御霊を受け、キリストとの交わりに入った者たちということでしょう。
このような人たちは、同じ信仰と希望に結ばれた民といえます。わたしの知り合いのクリスチャンである姉妹も、わたしを人に紹介する場合は、わたしのことを信仰の友と紹介しています。
クリスチャンが多数の前で話すとき、わたしはイエスのもとに皆さんと兄弟姉妹であることを感謝します、と言うようにしています。
それでは、いろいろな呼び方をされているキリストに属する者についてもう少し考えてみたいと思います。
キリストに属する者の聖書解釈は実に多様だと思います。
同じ聖書を信奉する者でも、現実を見ればわかるように、大きくはプロテスタントとカトリックに分かれており、プロテスタントの中には多くの宗派があり、単立教会も多くあります。
比べてみたわけではありませんが、各教派毎に聖書解釈が違うのは当たり前で、当然牧師個人間、信徒個人間でも聖書解釈が微妙に違うところがあると思います。
これだけ意見が分かれるということは、それだけ聖書解釈が多様性に富んでいるということだと思います。聖書とは、そのようなものだということです。
なぜ、聖書解釈が多様性に富むかと申しますと、聖書解釈は、聖書を読みまたは聞き求める者個人の状態に合わせて聖霊が働かれ、解釈する知恵を聖霊からもらって読む者、聞く者が解釈するからだと思います。大切なのは、御霊にあって聖書を読むと言うことだと思います。
なぜ違うかといいますと、信仰はあくまで神様とその人個人の問題だからです。
もし、法律のようにすべての人が一つの教え、一つの解釈(教理)を絶対に守らなければいけないのでしたら、その教理は権威をもち一人歩きを始めてこの世を支配するものとなり、聖書よりも教理のほうが上になり、権威をもつようになる。
それこそ聖書の教えから離れてしまうことになるかもしれません。どこかにそのようなことを書いた本もありました。
そのような権威が悪く使われると、中世ヨーロッパであったように、たとえば免罪符のように、恐ろしいことになるかも知れません。
聖書解釈は多様性があるからこそ意味があると思います。そこに聖霊が働かれる場があり、個人個人の神様との関係が(信仰が)尊重されることになるのだと思います。
そして、聖書そのものは人間が書いたもので、原本は無く、多数の写本が造られ、各国語に翻訳されていますので不完全ですが、そこに聖霊が働かれることのより完全なものになるのだと思います。
イエスは自分で書いたものは残されなかったし、誰かに自分の言葉を筆記させようともされませんでした。
もちろん、それには理由があって、自分がこの地上からいなくなった後にこの世に聖霊を送り、聖霊の働きに委ねられたからだと思います。
文字という人間の意思伝達手段だけでは、不完全すぎてその役目は果たせないのでしょう。
聖書を見てみますと、神様はあくまで人間一人ひとりに語りかけておられます。集団に語り掛けられることはなかったと思います。集団に語りかけられる場合でも、選ばれた個人を通して語りかけられました。
わたしは、人間が多様である如く、聖書解釈が多様性であるのは神様の御業と理解しております。そういう意味で、その人の人生とか、信仰をもつことからくる責任はその人個人が持つべきものと思います。
聖書は多様性に富んでいて、不完全なようでありますが、先に書いたように聖霊が働かれる中での解釈であれば、イエスの福音を伝えるという意味では完全だと思います。
それは、過去の歴史を見ればよくわかります。そうですね、たとえば聖書の一節を読んで人生を変えられた人が多くおられるのは事実だからです。それは聖霊の働きによらなければ考えられません。
それでは、多数に分かれているキリスト教各宗派を共通する教えは何か、つまり、何をもってキリスト教徒と言えるのか、これを外したらキリスト教徒でないといえるものは何かあるのかといいますと、それが文書で書かれた、権威あるものがあるのです。
それは「使徒信条・・ニカイア信条ともいいます。」だと思います。キリスト教徒として最小限信じる必要のあることが書いてあります。
ニカイア信条は二世紀後半に、第一回キリスト教公会議で決められたということです。今でもプロテスタント教会でつかわれています。短いので書いてみますと
「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、われらの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内によみがえり、天にのぼり、全能の父なる創造主の右に座したまえり。かしこよりきたりて生けるものと死にたる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。アーメン」という内容です。内容の説明は省略します。
念のため、ここで教会(エクレシア)というのは、教会の建物でもないし、信徒の数が何人以上ということでもないし、教会と名前が付いているからここでいう教会でもありません。
イエスは、二人または三人の信者がいれば、わたしはそこにいる(マタイの福音書18章20節)と言われていますからね。イエスがおられる集まりが教会だと思います。
御言葉が語られて、信仰により、聖霊によって聖徒が交わりをもっている場、群れとか集会を指していると解釈しています。
さて、キリスト信仰を個人の立場から見た場合、上記の「使徒信条」の内容を信じる以外に何が必要かといいますと、
使徒パウロは、キリストに属するかどうかについて、「キリストの霊をもたない者はキリストに属していません。」(新約聖書ローマの信徒への手紙第8章9節)といっています。
つまり、聖霊によってキリストとの交わりの中に生きる者たちがキリストに属するのです。聖徒の集まりに属しているから、教会に属しているから、キリスト教徒ではないのです。
それでは、キリストに属する者とそうでない者との区別はそのようにしてするのでしょうか。
キリスト教徒一人ひとりには聖霊が内住され、信徒同士は聖霊によって結ばれている者ですから、聖霊がもっている性質をその人が持つかどうかということになります。外からそれが分かるかどうかも問題ですが。
聖霊は、人を信仰に導き、復活をもって来世に希望を与え、神の愛を示します。そして、信仰者は聖霊の導きによってイエスに倣おうとします。
そのような性質をもった人がパウロのいうキリストに属するものだと思います。
つまり、イエスの言葉を信じて聖霊を自分の内に向かい入れれば、当然その人はそういう雰囲気とか行動をする人間になるので、外から見ても分かるということですね。
そして、信仰をもっているかどうかの区別は、パウロは、新約聖書ローマの信徒への手紙第10章9節で、このように言っています。
「口でイエスが主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」。
マルコによる福音書第8章38節は、「わたしとわたしの言葉に恥じる者は、人の子もまた、・・その者を恥じる。」
第一コリントの信徒への手紙第12章3節は、「聖霊によらなければ、だれも、イエスは主であると言えないのです。」
これらの聖句が伝えようとすることは、イエス・キリストを信じますと告白するということは、人間の決意や意思によってするのでなく、その人に内住する聖霊の働きを体験すれば、信仰と希望と愛が与えられてその喜びの余り自ずからキリストを告白したくなり、賛美したくなると言うことではないでしょうか。「キリスト教とは(2)」に続く
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