生と死の矛盾
生と死は矛盾です。あちらを立てればこちらが立たず、です。
生を肯定すれば、生の否定である死は認めることができません。生において活動してきた自分は、死ねばその存在そのものが否定されます。自分がなくなるのです。
死を受け入れることは、生を否定すること、現在の自己を否定することになります。生は生きることが目的ですから生きることを否定することは矛盾です。
生は執着ともいいますから、人は、死が迎えに来てもなかなか往生できないのです。
しかし、生と死は自分ではどうにもならない確かな現実です。
この矛盾を解決するために、人間はあらゆる努力をしてきました。不老不死の薬を考えたり、人間の根源的な営みである宗教も大部分この問題から出てきたと思います。
人間は、昔から死をどのように見、その矛盾をどのように解決してきたかは、死者を葬る儀礼によく表れています。
その儀礼の形はさまざまですが、共通していることは、死後の存在を前提にして、被葬者が死後も幸福であるように、また会いましょうと祈って、この世から送りだしている点です。
もちろん、そこには、死ねば天国に行けるという根拠のない願望もあります。
そのように語ることが生きている者の根拠のない安らぎであっても、そういう形で矛盾を乗り越えようとする。儀礼によって現在の生の幸福とか不幸を死後の幸福に結びつけるのです。
そして、何の根拠もないのですが、自分の死後も儀礼によって保証されているから安心という形で、生と死の矛盾を克服している。
文明がどんなに発達しても、生と死の矛盾は解決できません。
昔は村の共同体が、鎮守の森などをつくる、あるいは、先祖を祭ると言う形で先祖と共に生きる方法で解決していたと思うのですが、現在は小家族単位になり、個人を尊重する時代ですから、各人が自分の心の中で解決をしなければならなくなりました。
ところで、現代は科学の時代であると言われています。
あらゆる問題が科学的知識によって解明され解決されると信じられていますが、人間の生き死の問題は、科学で解決するどころか、ますます神秘性が際立ってきて、人は宗教に解決を求めているように思います。
たしかに自然科学だけでなく人間や社会に関する科学は大いに進歩して、人間に多くの新しい認識や問題の解決をもたらしました。
しかし、それによって生と死の矛盾そのものが解決したわけではありません。
人は伝統宗教にもその解決を求めますが、仏教も神道も解決を示さず、各人が生と死の矛盾の中で生きています。
新興宗教に走る人が多いのはその表れでしょうか。
わたしはこうゆう時にこそ、冷静に、過去の因習にこだわらずに、必ず本物があると信じて探すことが大切かと思うのです。
もし、生と死の矛盾を解決する方法があるならば、それは過去・現在・未来の全人類を対象とし、真理ですから唯一で普遍的だと思います。
この問題は本来個人に与えられた、個人が解決すべき問題だと思うのですが、現実は、ほとんどの人は、分からないから、いや、無関心を装っているか避けている。
知ろうと努力もしないで、根拠もなく来世に希望をもったりしている。皆で渡れば怖くない、の世界です。
人間、もし生と死の矛盾を解決できたら、もう少しまともな社会を、また人生を築けるかもしれません。
このような状況にある人間に向かって、聖書は、神がそれを解決してくださったと教えています。
聖書には、十字架につけられて殺されたひとりのイスラエル人イエスを、神が復活させてキリスト(救い主)として立てたと書いてあります。
そして、このイエス・キリストの十字架の死と復活の出来事こそ、神が人間に与えられた救いであると宣言しています。
この死者からの復活は、復元ではありません。それは新たな創造です。
誰でもこの福音を信じる者、すなわち十字架につけられて復活したイエス・キリストを信じる者は救われるというのです。
救われるとは、先に書いたような、生と死の矛盾の中にある人間にとって、死から復活したイエスにより死が滅ぼされたから、この矛盾から救われるということです。
救いの内容を示すために、聖書は「永遠の命」という語を用いています。「永遠の」というのは、もはや我々は死によって否定されることがないということを指しています。
生と死の矛盾を克服した生命という意味だと思います。キリストを信じる者はそのような生命に生きることができるのです。
この人間の生と死の矛盾を克服する願いに対しての聖書の与える解決は、一言で言えば、復活です。
神はイエスを死者の中から復活させて、死を滅ぼし、死の問題に最終的な解決を与えられたのです。
約2000年前に、イスラエル人イエスは十字架に付けられて死にました。
ところが、そのイエスは三日後に死から復活されたのです。死から復活されたということは死に打ち勝たれたことになります。
それらのことは、神の御業なのです。
なぜなら、そのようなことは神様にしかできないことだからです。
神は、御子イエスを信じる者は、御子イエスに倣って、この世の終わりの時に、霊の体で復活させるといわれているのです。
その約束の証がイエスの復活なのです。
復活する命を聖書は、「永遠の命」といっています。このように、永遠の命とは、来るべき永遠の世における命のことです。
別の投稿文に書きましたが、この永遠の命というのは、時間の永遠を指すのではなく、復活されたキリストとともに生きる命の生き方の問題だといえます。
キリストを信じる者が、この世を生きるということは、死に定められた人生の中で、死を克服した生命を持ち生きることなのです。
それは将来の復活を待ち望むことだけではなく、そこに至る道はイエスに十字架ですでに実現しているのですから、現在この地上で永遠の命を生きることにもなります。
このことを使徒パウロは次のように言っています。
パウロは、復活したキリストに出会うという、自らの体験と、キリストに結ばれて生きている現実から、パウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。
キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤの信徒への手紙第2章20節)と語っています。
わたしはキリストの十字架とともに死に、復活したキリストが自分の内に生きておられるというのです。
今この地上の生において生きているのは、死に定められたわたしではなく、死に打ち勝たれた、死から復活されたキリストであるというのです。キリストとわたしはもはや一体だというのです。
これはイエス復活の御霊、聖霊がパウロに内住され働いておられるから言えることだと思います。キリスト信仰の極致ですね。
死から復活されたキリストが、パウロの中で生きておられるのですから、言い換えれば、自己を完全にイエスの御霊に委ねているのですから、自分が死ぬか生きているかはどちらでもよい問題になります。
そうなれば、地上の生と死はキリストの御霊にあるパウロにとってはイエスの十字架と復活でもはや解決済みですから、どうでもよいことだから、相対的な問題になります。
すなわち、死に打ち勝たれたキリストと共に生きているという現実の中で、地上の生と死は「生きるもよし、死ぬるもよし」というように相対的なものになるということだと思います。
このような境地から、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」というような言葉が出てくるのでしょう(フイリピの信徒への手紙第1章21節)。
クリスチャンがすべてこのような心境かといえば疑問ですが、すばらしい境地です。神に特に選ばれた者のみが達することができる境地でしょう。
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