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2010年9月15日 (水)

人間の貪欲の罪

先進国では、特にアメリカなどでは国民の肥満率は30%を超えているということです。日本においても、賞味期限とかがありまして、その期限を超えた食品は捨てていると聞きます。テレビを見ていても大食い競争などと称する番組がなんと多いことでしょうか。

世界を見渡せば、明日食べるものがなくて困っている人が、食べるものが無くて死んで行く人がいるというのにです。

「人間と豚と、どちらが食いしん坊か」と尋ねたら、多分、多くの人は豚と答えるでしょう。ところが事実は逆で、人間の方がずっと食い意地が張っているのだそうです。


ある人が実験してみました。豚に好物を腹いっぱい食べさせました。鼻の先にご馳走を突きつけ、後ずさりして、いやいやするほど食べさせたそうです。

そして、後で豚の胃袋を解剖して調べてみると、胃袋には、シワが寄っていて、まだいくらかは余裕があったというのです。豚はどんなご馳走でも腹八分目で止めるのです。このように、豚に限らず動物は生きていく上に必要以上は食べないのです。

人間はどうでしょう。ほとんどの人は腹八分目どころか、自制がきかなくて満腹になるまで食べようとします。食べきれずに余れば捨てます。「腹八分目にしなさい」と「もったいない」という忠告は、人間だけに必要なのですね。

なぜ人間はこんなに食べるのか。ある人は、それは、人間が食物を料理することを知ったからだ、と言います。

食事が美味しいので、暴飲暴食するというわけです。それも確かに一理あると思いますが、もっと大切なことがあります。

それは、動物は神が与えた摂理のコントロールによって生きているのですが、人間は、食べるものがあれば、どれだけ食べるかはその人の自由意思に任されているということです。

神は、人間に自分の事は自分で管理しなさいといわれているのです。神は人間をロボットのようには造られなかったのです。

欲するままに食べていれば、成人病まっしぐらです。神は、体の管理もその人に任せられたのです。少しは飢えている人のこともかんがえて、自制を働かせて食べなさいと言われていると思います。

人間は、動物と違って、食べること、食べないこと、あるいは節制することを自由に選ぶことができるのです。そこに人間の人間たるゆえんがあります。

人間の本性は罪だといいますが、これは人間の本性がどうしても罪に向かうようにできているということだと思います。罪を好み、罪を選ぶようにできているのです。

なぜなら、人間は、自分が満足すること、自分が他者より優位に立つことしか考えないからです。それも際限がないのです。お金がほしいと思えば、権力がほしいと思えば際限がなくほしくなるのです。

なぜそれが罪かというと、それは他者を滅ぼし、自分の体をも滅ぼします。そして、なによりも互いに愛し合いながら仲良く生きていきなさいと言われている神の御心に反しているからです。

自分だけが良かったらよいという自己中心性のなせることだからです。これが国と国の間の問題になれば戦争になります。 

人間は、自己中心で、自己愛の塊です。そこから罪が生まれます。人間には自由意思が与えられていますから、日常生活の中で、それをコントロールすることが必要となります。

人間の心の働きには、知性、感情、意志があります。ところが、人間は神に対する不従順の罪によって、神から離れ、神との交わりがなく、神のいのちから切断されているので、心が正常に働かなくなっているのです。

罪なる性質は、知性よりも欲望を満足させる方を好むのです。そして、神の霊、聖霊の働かない場では、正しく意志を働かせることができないのです。高等教育を受けても、人間の貪欲という罪は直らないのです。

ガンジーの言葉だと思いますが、「この地球には人間が生きて行くのに必要なものはみな備わっているが、人間の貪欲を満たすだけのものはない。」という意味のことを聞いたことがあります。

先進国では、肥満者が増えています。しかし、世界の貧しい国々では、毎日何万人も飢えに苦しみ餓死しているという矛盾した事実があります。

自由意志を正当に働かせるために、そして人間が人間らしく生きるためには、どうしても神の救いが必要なのです。イエス・キリストによって、知性、感情、意志の全人格的な新生が必要なのです。

神の御子イエス・キリストは、このように罪によって歪んでしまった人類を救うために、人となってこの世に来られました。そして、人間の罪を赦すために、十字架で血を流し、贖いのための子羊となられたのです。聖書の言葉を上げます。

「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(ルカの福音書12の15)。

「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。 そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。 」(ヤコブの手紙1の14,15)。

「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争いあう欲望が、その原因ではありませんか。

あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり、戦ったりします。

得られないのは、願い求めないからで、願い求めても与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。 」(ヤコブの手紙4の1~3)。 

今の世の中、テレビを見ていると、毎日のように、役人、政治家、教育者等々、この人がと思う人が不道徳なことを平気ですることが多くなり、腐敗ここに極まれり、といった感があります。特に役人の腐敗ぶりには目を負いたくなります。

最近は、「振り込め詐欺」などという巧妙で悪質な犯罪も増加し、気の毒な被害者が続出しています。「今の世の中もう腐りきってしまってどうにもならない。」と嘆いておられる方も多いのではないかと思います。

しかし、聖書の神は愛の神ですから、その腐ったような人間を愛してくださっているのです。忘れることも捨てることもしないで愛してくださっているのです。

出来の悪い子ほどかわいいといいますが、イエスは、そういう罪びとのためにこの世に来られたのです。愛なる神は人から見捨てられるような屑のように思われる人間さえ愛してくださるのです。イエスは、そのことを人類に教えるためにこの世に来られたのです。

このような質問がよくあります。「それなら、神様は愛なのに、どうして一人残らず、天国に入れてくださらないのですか?」と。

わたしは、その質問に対して、次のように答えたいと思います。「神様は愛の方で、わたしたち一人残らず天国に入れたいと願っておられると思います。けれども、神様は聖なるかたであり、義の方ですから罪人をそのまま天国に入れることは出来ないのです。」

自分の罪を自覚し、悔い改めさせることなく赦せば、神はただの親ばかです。そうすればどんな人間ができるでしょうか。自明の理です。

ただ一つ人間にとって救われるのは、人間は悪魔のようにその本質から罪ではないので、悔い改めることが出来ます。だからわたしは、すべての人が、自分の罪を自覚し、必ずや神の元へ帰ると信じたいと思います。

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