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2010年9月 7日 (火)

道徳と信仰

日本ではいま、道徳教育が問題になっています。道徳という言葉を辞書で調べてみると、「人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。

外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。人のふみ行うべき正しい道」とあります。

何となく分かったようで分からない感じですが、それでは、そのことの善悪とか、正しい行為とか、正しい道とはどのような道で、誰が決めるのでしょうか、それに、事の善悪の判断も難しいですが、自発的に行うということも難しいですね。


道徳や倫理 、あるいはモラルとは、社会や共同体において習慣の中から生まれ、通用するようになった規範と言い換えることが出来るかも知れません。

集団の中から自然発生的に生まれたものということでしょうか。そうであれば、非常に不確かなものといえます。

具体的な内容としては、社会的な習慣や礼儀・作法もその範疇にあるとされています。明確な定義はないということです。

先日の新聞には、国が道徳教育をすると書いてありましたが、何を基準に内容を決め指導するのかと疑問に思うわけです。現場で教育する人は、確信を持って教育できるのでしょうか。

道徳とか倫理は、地域・時代に応じて異なり、社会的影響を受け変化します。異なる社会や共同体では異なる倫理・道徳があることは当然であり、普遍的倫理や普遍的道徳といったものは存在しません。このことを忘れると集団的エゴイズムに陥ることになります。

「道徳を守ることは、正しいことである」と広く考えられているため、政治的に利用されやすいと思います。

為政者に都合の良い教えを道徳とし、社会的な規範とすることで人民を容易に拘束できるため、封建社会などでは領民を精神面で押さえつけることに利用されました。

戦前・戦中の日本なども、まさしくそういう状態でした。道徳が政治に利用されていました。

自然発生的と言いますが、何か基準はあるのでしょうか。良心ですか、良心もその一つかもしれませんが、良心は、本来個人的なものだと思います。

社会規範となると、もう一つうまく作用しないのではないでしょうか。なぜなら、ときとして、その場限りで特定の会社とか共同体の利害を代弁するものに過ぎなくなることがあるからです。

そのような場所では、良心はその自由を真の意味で発揮できません。会社にとって、あるいは地域社会にとって良いことは良心に適っているとは限りません。

また、良心は、神から来ているといいますが、わたしもそれは真実だと思います。しかし、神から離れて、本質的に罪を選ぶ性質を持っている人間が、行為においてそれを行うことができるのでしょうか。出来ないと思います。

良心の呵責といいますが、まさにそのことを示します。思っていることと行うことが違うのですね。人間の罪なる性質は、自分ではコントロールできません。

道徳とは、人間を作るための教育だと思いますが、相対的にしかものを考えられない人間にそれができるのでしょうか。人間の考えることには絶対はありえません。

社会常識といわれるものは、常に変わるものです。不変ではなく常に正しいとは限りません。人を殺してはいけないといっても、戦争になれば、人を殺すのは正しい道とされます。

はたして、そういうもので人間を作ることができるのでしょうか。
ある本には、このようなことが書いてありました。「道徳の根底には宗教、信仰がなければならないというのは真理です。」

この言葉の意味は、宗教とは本来神を信じる信仰を言うのですが、この神というのは、創造神、わたしたちを造られた方をいいます。わたしたちをこのように人間として存在させている方を指しています。

人間は万能ではないのです。創造主ではないのです。被造物なのです。わたしたちは造られて生かされている存在なのです。

人間が、道具を作る時は必ず目的があって作ります。同じように、人間を造った神である創造主は、目的があって人間を造られているはずです。

そういう被造物が自分を造った創造主の意思を、造られた目的を知らずして、同じ人間を教育することなどできるのでしょうか、ということだと思います。

「人は信仰に生きる」という言葉があります。わたしはキリスト教を知り初めて、そういう考え方があることを知りました。今ではそういう考え方は真実だと思っています。

信仰がなければ、人間がそのほかの何を積み上げても、神とのかかわりを正しくすることはできません。知識を、教育を、道徳を幾ら積み上げてもです。

わたしたちは、このことを忘れて、いや知らずに、いつも自分の手の業を積み上げてきました。なんでも努力すればできるという、間違った、あるいみ被造物として傲慢ともいえる信念のもとにやってきました。

それが社会常識であり、正義でもあるわけですが、よく考えると、そういうものが不公平と不条理がはびこる今のこの社会を形成しているともいえます。

信仰とは、信じて仰ぐと書きます。信は、人と言葉が合体しています。この言葉は、キリスト教的にいえば、自分を存在させている神の言葉です。

この神の言葉と人とが合体して信となり、その神を信じて生きている姿が信仰の姿と言えるのでしょうか。

そのように、信仰とは、神の言葉に自分の全存在をゆだねて生きることだといえると思います。

そのように、自分の全存在を神にゆだねて生きることができるのは、神が真実、信頼できる方であるからです。信仰とは、信頼して仰ぐこととも言えます。

神の言葉は絶対で変わらないものです。そして、必ず実現するのです。信頼するに値する存在なのです。

神の真実は、偽りなく、義であり、聖であるということです。造られたものが自分の創造主を信じることができなくて何を信じるのでしょうか。

聖書の世界での「まこと」のことを内村鑑三先生は一日一生という本の中で言われています。「神は至誠至信の神であり、信そのものなのです。神の誠実さ、これがわたしたち人間存在の土台であります。」と。

神は、最初自分の言葉をもってイスラエル民族と契約されました。

また、イエスの十字架をもって過去・現在・未来すべての人類と、罪の贖いを契約されました。神は神の真実を、イスラエル民族との歴史の中で、またイエスの十字架と復活で、そして、今は、イエスを信じる者への聖霊の内住をもって証されています。

わたしたちは、自分の決意・真実・誠意・信念から発するものではなく、自分の置かれた立場を自覚して、そういう神に信頼を置くことが大切かと思います。

人間は、自分が被造物であることを知り、傲慢を捨て、神の前にへりくだることにより初めて、神の創造の思いを聞くことができる。そして、何をすべきかもわかると思うのです。

神の御心に裏付けられた道徳が生まれ、それに沿った教育がなされれば、これほど確かなものはないと思うのです。

だらだらと書いてきましたが、最後に一言、人間、もう少し自分が被造物であることを自覚すれば,人々は謙虚になり、もっと住みやすい社会になると思うのですが。いかがでしょうか。

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