あるキリスト教会の話
勝手な憶測でこのようなことを書けば異論が出るかも知れませんが、また、キリスト教を誤解されても困りますので、やはり書いておきたいと思いましたので書きます。
少し前のことですが、京都にある韓国人牧師のプロテスタント教会で、不祥事が起きてマスコミを騒がせたことがあります。
牧師が少女の信徒に対して、長年にわたって性的暴行を働いてきた。教会幹部もそれを容認し、隠蔽工作に協力してきたという出来事です。マスコミの報道ですけれど、事実なようです。
どうしてこのようなことがキリスト教会に起きるのか。
もちろん、キリスト教会だけでなく一部の新興宗教にも同じような出来事があると聞きますが、そのようなことは聖書の教えのどこからも見えてこない。わたしたちイエスを信じ、聖書を学ぶ者も理解に苦しみ当惑します。
その教会もイエスの名を奉じて礼拝していると思います。それならば、どこからもそのような出来事が起こることは考えられないのです。この事件で、一般の人がキリスト教を見る目がまた一段と厳しくなるものと思います。
クリスチャンにそのことを聞いてみましても、サタンが入ってそのようになったのではといって例外的な事例という認識で余り語りたがりません。わたしの所属する教会の牧師もそのことには触れません。
疑問が浮かんだら調べたくなるのがわたしの悪い癖です。学ぶこともあるかと思い、さっそく、色々と調べてみましたら、わたしなりに一応次のように理解するに至りました。
憶測も入りますので間違っていればお許し願いたいのですが、キリスト教に興味をもっておられる方には参考になると思います。
結論は、その教会は「牧師は神から特別の神的な権威を与えられた存在であるから牧師の言葉は絶対である。」という主旨の教えをもって、信徒がその通り信じていたということです。
牧師(聖職者)は神に選ばれた人、だから牧師(聖職者)の言葉は神の言葉と同じ権威を持つ、神はその牧師にしか語られない。これって、中世のキリスト教会の過ちの原因そのものではないかと思います。
神は牧師(聖職者)にしか語らない、だから牧師(聖職者)の言葉は神の言葉だから絶対で、間違いがないから従わなければならない。ということです。恐ろしいことに、牧師(聖職者)が神になっているのですね。
信徒が、聖書にも書いていないそういう教えを疑問も持たずに信じたのには何か原因があるのでしょうか。自立した信仰を持っていればそのようなことはないと思うのですが。
その一つの例として、その京都の教会は霊的な現象を避けなかったからだとも言われています。
どういうことかと言いますと、牧師が霊的な現象を、神がかり的なことを積極的に行えばそれを信者が見てその牧師を特別な存在と思ってしまう。
つまりカリスマ化してしまうのですね。牧師だって人間だから病気にもなるし、精神的におかしくもなるし、間違った聖書解釈をすることもあるし、悪魔に囁かれて道を間違うこともあります。
大体が、特定の聖書解釈が絶対だというのであれば、聖書は牧師だけが読み誰もが聖書を読む必要はないと思うのです。
聖霊も遍在される必要はありません。特定の牧師に臨めば済むことですからね。そうですね、旧約時代の預言者に臨まれたようにです。
霊的な現象といいますか異言など霊的賜物にしたって何も特定の聖職者だけに現れるのではありません。他のペンテコステ派の教会に行けば、一般信徒にも日常的に現れています。何も聖職者だけの特権ではありません。
こうして見ると、信徒が幅の広い視野を持って聖書を忠実に解釈していれば、防げたのかもしれません。
事件を犯した京都の教会の信徒さんは、牧師の言葉に逆らえば地獄へ行くとも言われて脅かされたのでしょうか。
そこに人間の弱さを見るような気がします。これは、視野が狭くなれば物事の真実が見えなくなるということでしょうか。現在のような情報過多の時代でもそういうことが起こるのですね。
調べたところ、そういうところに、中世ヨーロッパのキリスト教会が犯した過ちの原因があるとも聞いています。聖職者の権威が絶対化すると、聖職者は、自分は神から選ばれた存在だ、自分は神だと思ってしまうのでしょうか。
だからアメリカでは反省し、人ではなしに聖書主義が守り続けられていると聞いています。バプテスト教会はそういう反省の上に成り立っている教会だと聞いております。
バプテスト教会など聖書主義の教会は、聖書以外に権威を認めず、聖職者だけではなく、一般信徒各々にも、聖書を読む中に聖霊が働かれてその者に真理を語られると考えられています。
だから、牧師などの聖職者だけに特別な能力が与えられる、という見方はしないのです。
礼拝で語られる牧師の言葉は絶対ではないし、何が何でも服従しなければいけないということでもありません。そういう意味では、わたしのように勝手に聖書を解釈して、ブログ投稿するなどとんでもないことになります。
万人祭司という考え方があります。信徒はみな、説教者であって、牧師など聖職者だけに特別に説教の権威が与えられているのではない、という考え方です。
だからバプテスト教会など聖書主義の教会では個人伝道が重視されるのだと思います。
このように、信仰は、み言葉は、神様と出会った歓びの証と共に個人から個人に伝えられていくものだと思います。
あの牧師がこのように言っているから信じる、なんて発想はありません。だから、信仰は牧師(聖職者)を介して神様とつながるのではなく、信徒個人が神様と直接つながるものだと思います。
牧師(聖職者)だけに神は臨まれて、神の言葉を語るということになりますと、牧師だけにみ言葉を語る権威、み言葉を解釈する権威があるということになります。
そうすると、牧師は、自分を神だと錯覚してしまうということになります。これぞまさしくサタンの思うつぼです。
自分を通して信徒は神と交わるという考え方は、中世カトリック教団が、法皇をイエスの代理人として、イエスの権威を自分に延長したのと質的には同じだと思います。
バプテスト教会などの聖書主義はその反省の上に立って、権威は、聖句そのものにある、といっています。牧師など聖職者の神格を否定しています。
これから教会に行こうとされる方は、牧師など聖職者を個人崇拝しているところは敬遠すべきでしょうね。
判断の中心になるのは、聖書に唯一権威を置き、創造主である神と御子イエスと復活の御霊、聖霊、つまり、三位一体の神のみに神格を認めるところということになります。
聖霊は聖書の言葉を通して読む者個人に働かれる。信じて読む者はそれを感知する能力が与えられている。
牧師など聖職者だけに別格な能力が与えられているというようなことはない。だから、聖書も一つの解釈が絶対ということにはならない。聖霊が働く場であれば、誰が解釈してもその解釈は真理だと思います。
特定の聖職者の教えを盲目的に信じるのではなく、視野を広く持ち自立した信仰を持つことがいかに大切かを思い知らされます。
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