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2010年7月13日 (火)

創世記1章と2章の違い

創世記1章における人間の創造と、2章におけるアダムの創造とエデンの園物語のそれとは状況がまったく違います。

 

前者では、神は先に動植物を造っておいてから人間を造り、後者では、アダムという人間を造った後に、動植物を造ってエバ(女)を造りました。

 

この矛盾をどのように解釈するか、2000年来永遠とキリスト教界の中で議論が続いています。

 

きっとこれからも議論は続き結論は出ないでしょう。

 

創世記は口伝伝承などを編集して書かれたのでしょうが、創世記が編集された時代に行って編集者に確かめることもできません。

 

二千数百年後の読者であるわたしたちがこの矛盾に気づいているのですから、旧約聖書の編集者がこの矛盾に気がつかなかったはずがないと思います。

 

 

知りながらあえて登載した。

 

きっと、聖書編集者には矛盾じゃなくて何か意味するところがあったとみるのが自然じゃないでしょうか。

 

この投稿文ではわたしが納得した一つの考え方を書いておきます。

 

大胆に推測すると、もしかしたら、第2章でアダムが造られ、エデンの園が造られたときには、すでにこの地球上に第1章で造られた人間がすでに大勢存在していたということではなかろうか。

 

そのように考えれば、後に出てくる他にもある聖句の矛盾が解けるのです。

 

創世記2章15節において、アダムに神はエデンの園を守らせています。

 

すなわち、「主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」のこの「守るようにされた」というのは何かから守るということでしょうが、何から守るのでしょうか。

 

すでにその時にはエデンの園の外には1章の人間がいたとすれば納得できます。

 

また、4章8節でアダムの子供であるカインは弟アベルを殺したのですが、神は怒り、カインをエデンの園から追放するのです。

 

そのときにカインは神に、「今日、あなたがこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」(創世記第4章14節)と言いました。

 

この「わたしに出会う者・・」は誰でしょうか。

 

1章の人間ならわかります。

 

2章の人間はこの段階ではまだ僅かでアダムの家族だけですからね。

 

次に、6章2節と3節の、「神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして人の一生は120年となった。」

 

この聖句で、神の子らというのは2章で創造されたアダムの子孫で、人の娘というのは、1章で創造された人間だとすると神の子らが人の娘を娶るのを神は快く思わなかったという聖句の矛盾も解決します。

 

それでは、1章と2章の二つの人間はどう違うかを見てみます。

 

両者の違いがはっきりと分かるのは、2章7節の「・・主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」とあることです。

 

2章のアダムには命の息が吹き込まれていますが、1章の人間創造にはそのような記述はないのです。

 

この「命の息」はヘブライ語では霊の意味もあるということです。

 

この命の息が問題だと思います。

 

それは上記6章2節の「わたしの霊」に当たると思います。

 

命の息ということですから、生きていくためには絶対に欠かせないものです。神は永遠の存在ですから、永遠に生きるための命の息だと思います。

 

だから、生きる者となったというのは、神とともに次の世でも生きることができる存在になった、神と共に生きる状態が本当に生きていると言える、という意味だと思います。

 

当然肉体はこの世を去るときに滅びますから、これは霊的に生きる者になったということでしょう。

 

命の息を吹き込まれたアダムの子孫は、本来いつも神に善悪の判断をゆだねて神との交流のもとに神と共に次の世も永遠に生きていける存在であったのですが、命の息が吹き込まれていない1章で創造された人の娘と雑婚したので、その命は6章3節で120年となった、ということではないでしょうか。

 

この人間の寿命が最大限120年というのは、確か科学の進歩した現在でもそのように理解されていると思います。

 

神の霊が吹き込まれていない人間の命は、肉の命に過ぎないのでその寿命は120年、死ねば死霊となる。

 

神はせっかく想いを込めて共に歩める人間を造ったのに、その人間は、自分から離反し、自分中心で生きていくようになり、また、命の息がない1章の人間と雑婚し、踏んだりけったりです。

 

思惑はずれもいいところです。

 

そこで創造主として手を打たれたのが、イエス・キリストの出来事となるのでしょうか。

 

イエス・キリストは、この神と離反した人間との中保者となるためにこの世に来られた。

 

そして、イエスが昇天された後、聖霊をこの世に送られ、わたしの約束の言葉を信じ、心にとどめたらあなたに聖霊が内住し、永遠の命、つまり次の世での復活の希望につながる命を与えるといわれました。

 

この聖霊が創世記の命の息に当たるのではないでしょうか。

 

だから、イエスの十字架の受難の物語、全人類の罪の贖いの物語は、神からの離反という罪がアダムに入る前の状態への人間回復物語と言えます。

 

もともとこのわれわれが住む宇宙はサタンの牢獄でありました。

 

サタンが支配者でありました。

 

だからアダムはエデンの園でサタンにそそのかされて罪を犯してしまったのです。

 

この宇宙は約2000年前にイエスが来られてから神の支配へと移されました。

 

といってもサタンはなぜか必要があって滅ぼされずにこの宇宙でまだ活躍しています。

 

イエスはその中にイエスを信じる者の世界を、つまりエデンの園に似せた世界を造ろうとされているのです。

 

それがクリスチャンの集まりであり、キリスト教会だと思うのです。

 

イエスは、人間の言葉でさまざまな教えを述べるだけでなく、自ら十字架に架けられ殺されることによって、人間を悪魔サタンの影響から解放する条件を整えられました。

 

イエスの残した言葉を自由意志の元に受け入れれば、神の霊、聖霊がその人に内住し、その人をサタンの影響から守り、神と共に生きる永遠の命を与えるために新しい人間に造り変えてくださる。

 

もし、イエスの言葉を受け入れねば相変わらずサタンの影響のもとで死ぬべき運命の中で生き続けることになる。

 

今のわたしたちはそういう二者択一の条件の下で生きているということになります。

 

なお、創世記1章と2章の違いの解釈の仕方は、わたしは他の個所の疑問点も解決させる意味で、1章の人類と2章の人類は神の霊、命の息を受けているか否かの違いで二つの人類がいたと解釈しましたが、ただ言えることは、聖書と言う信仰書を科学書のように扱うことがまず過ちだと思うのです。

 

ましてや創世記の前半分は神話です。

 

だから、聖書に矛盾があるかどうかを考えるよりは、むしろ創世記の著者が読者に何を伝えようとしていたのか考える方が重要ではないかと思うのです。

 

だから科学的真実を聖書の上に幾ら考察しても始まらないと思うのです。

 

読む人が信仰によりどのように受け止めるかが大切かと思います。

 

創世紀は真実の神が天地万物を創造し、すべてを支配している事を啓示したものです。

 

そこには神の絶対的な権威と神が創造された天地万物の目的が記されていると思うのです。

 

聖書の著者も当時の読者も、私たち現代人が聖書を読んで矛盾と思われる事は、けっして矛盾とは感じていなかったのではないでしょうか。

 

なお、この創世記のこの個所の解釈は一つだけとは限りませんし、また、どれが正しいとも言えません。

 

この投稿文に登載した解釈は、わたしが一応なるほどと思ったから取り上げました。

 

いろいろと書いてきましたが、最後に中川健一先生の解説で知ったのですが、聖書の解釈学の原則に「再記述の法則」と言うのがあるということです。

 

 

それは、最初は総論的に話をして、後で再び同じことを取り上げて、より詳しく説明するということです。

 

 

聖書の中には、この法則で書かれているところがいくつかあり、例えば、創世記11章1節から9節の内容(バベルの塔の事件)は、10章に書かれた「人類の全地への離散がどのようにして起こったかを詳細に記しています。

 

 

ということで、この創世記1章と2章の記事の違いも、その法則によって書かれているので、1章は総論的に、2章はその出来事をエデンの園での出来事として詳しく書いているということです。

 

 

したがって、創世記1章と2章の記事は別の人が別のことを書いているのでも、間違っているのでもないということです。

 

 

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コメント

おじさんの日記のおじさんです。コメントありがとうございます。先月にいただいていた先生からのコメントに昨日気がつきました。日頃あまりコメントを確認しないものですから、ご容赦ください。私は教会に集う一クリスチャンですが、聖書を読み自分なりに解釈し、その思いを投稿しています。先生のようなかたからこのようなコメントをいただいて、本当に嬉しいです。元気が出てきます。
最近気になっている言葉があります。「科学とは神がいてこそ成立する」です。素直に考えれば当たり前のことですが、なぜ、この言葉の意味を無神論者の方とか、進化論者の方は理解しないのだろう、と思うのです・・・??? それでは失礼します。

こんにちは、私は牧師をしていますが、初めて創世記を読んだ時から1章と2章は違う記述して思っておりました。ところが神学校や註解書、多くの先生はそのような解釈は間違っていると言われました。いろいろとそう言う解釈をしている人がいるかどうか調べてはみたのですが、あまりおられませんが、こちらのブログを見させてくださってまさしく同じ考えでした。神の計画摂理も同じ考えです。同じ解釈を持っておられる方がいて嬉しく思いコメントさせていただきました。

お久しぶりぶりです 年初ありがとうございます その後いかかがですか? イザヤ46:10なんか感じましたか イエス様がパリサイ人との会話で安息日にイエス様がはたらいているので迫害を受けたときおとんさんは今もはたらいておられると言われました<ヨハネ15:17> つまり安息日に働くなと言うことではなく もっと大事な事は将来の安息を心に記念とすることではないですか?ほかにもいろいろ聖書に書かれてますよ へブル四章は安息について細かく書かれてますよへブル4:1に安息に入る約束が残ってると 書かれてますよ 約束つまり将来のことではないでしょうか?私たちの考える日曜日ですか そのようには書かれてませんが 1週間はたらいて神様が休まれたとは書かれてませんよ ご理解できませんか? 

根拠はイザヤ書46:10に終わりの事を始めから告げまだなされてない事をと記録されています すなわち終わりとは黙示録で はじめから当然創世記1章を指していると思います そして2章に最大の矛盾があります 7日目に神様が休まれたと記録されています すなわち休みとは 聖書的に考えれば 安息を意味すのではないでしょうか しかしエレミア23:20に主の怒りは思うところを行い成し遂げるまで去ることはない つまり審判して天国の回復まで働くという意味と思います またイザヤ14:24に主の計りごとは 必ずなさるとも記録されています 以上から察すると黙示録のときではないでしょうか? そのときとは黙示録21:6節に初めて聖書に事は成就したと書かれています このとき神さまは安息に入ることではないでしょうか またⅡペテロ3:8節に1日は1000年のようだと記録されています そこで聖書の書かれている歴史は約6000年プラス1000年です 以上の点を総合して考えるならばイザヤ ペテロの語られたことは一致します ですから創世2:4に天地の創造の経緯と書かれています つまり概略です と言うことは はじめに1章で結論を書かれ 本論はその後であるという事です ですから天地の意味は全然違うことであるのではないかと思います そうなると全ての天地万象は神さまが想像されましたがそれははるか昔ことであり 聖書は6000年間しか書いておらず その前のことは書いてないから 人類はいたと言うことが成り立ちます 科学と聖書の一致です 科学も神さまが働いていると私は思います 詩篇78;2でこう語っています昔からの謎をたとえで語ろうと記録されていますそれをイエスさまがマタイ13:34~35で世の初めから隠された秘密をたとえで語ろうとおっしゃいました すなわち世の初めとは創世記1章です そしてヨハネ16:25でたとえでなくはっきり告げるときがきますとすなわちそのときが来ると約束してますつまり再臨されるとき明らかにするといわれています それは聖書では いつかと考えれば 黙示録のときです これらをまとめると 全て黙示録につながります ですから黙示録が明らかにされる方が現れたとき 全てが明白になるから 神様が信仰をそのときまで 保ちイエスさまの約束を信じ守りなさいといわれているように思えるのですが どう思われますか

 

 

始めまして kazuoと申します 偶然 創世記で調べ物して プログに会い 聞きたいと思い 書きました 聖書は 矛盾だらけです しかし神さまの神書であると思いますが 創世1章2章は矛盾してます 私は 神さまが矛盾することを 残さないと 思います なぜかといえば 1章は比喩の塊だと思います 文章どうりのことでは ないのではと考えます それを 世の終わりに 示されるのでは ないかと感じますが どう思われますか? またエデンの園の外に人がいたと思います

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