永遠を想う
あなたは永遠の世界があると思いますか。あるとしたら、あなたは永遠に生きたいと思いますか。わたしなら今のような人生なら、永遠に生きるなんてとんでもありません、と答えます。こんなしんどい人生が永遠に続いたら、と考えただけでもぞっとします。
この世での人生が終って死んだらあとは無、すべて終わりのほうがよほど楽です。日本国内に限らず世界中を見回すと、貧困があり、殺戮があり、戦争があり、災害があり、不条理と不公平が満ちています。
それでは、来世で永遠に生きるのですよ、と言われたらどうします。そんなバカな、来世なんてないよ、と思いますか。来世の存在を本当に否定できますか。それならなぜ人間は来世のことを考えるのでしょうか。
「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」(旧約聖書コヘレトの言葉第3章11節)と聖書は言っていますが、「永遠への思い」、これこそが人間にだけ与えられた神の賜物だというのです。
動物は、本能によっていろいろなことをしますが、人間のように未来のことや永遠のことを考えることはありません。
また、人間が永遠を考えること自体、霊魂が永遠に存在することを証明しているという見方もあるのです。
教えられてもいないのに、人間は死んでからのことを思います。
そうでしょう、葬式での別れの言葉は、「またあの世で会おうな」です。人間は教えられていないことは本来考えもしないはずです。この言葉がたとえ気休めでも、そうあってほしいという気持ちが少しはあるのではないでしょうか。
聖書では、人間には霊魂と肉体があることが前提となっています。そして、霊魂は本来永遠に生きるものであったが、罪が入り死ぬもの(命の源である神の霊、聖霊を受信できなくなったので)となった。
本来の永遠に生きる存在になるためには、イエスを信じて、聖霊がその人に内住することが必要だということです。イエスを信じないで(知らないで)死んだ人の霊は、今は裁きを待っている状態でどうなるかは分かりません。
では、たとえ次ぎの世であって、そこで永遠に生きるとはどういうことだろう。それに永遠を思う心を与えられているといっても、それは何を意味しているのでしょうか。
永遠の世界とは、この三次元の世界のことでなく、時間の外の問題ですね。我々が今住む世界とは次元が違うのですね。時間の中に住んでいる我々には次元の違う時間の外の世界を認識できないのは当たり前と思うのですが。
時間の外にある無限の世界、時間の無い世界におられる神の存在を認識することが、永遠を認識することにつながるのではなかろうか。
では、どうすれば神を認識できるのでしょうか。神はこの世の創造主であり、被造物にご計画を持って関与されています。そのことの具体的な現れは約2000年前にこの世のこられた神の御子イエス・キリスト。
だから、イエス・キリストを知ることが神を知ることになる。
そして、そのイエス・キリストが地上におられるときになされたこと、教えられたことがイエスの復活の御霊、聖霊の働きによって書かれたのが聖書ということですから、聖書を読めば神を知ることができるいう理屈になる。
聖書という書物は、人類が自分や社会を考える際に「永遠」という概念を人間にもちこみました。永遠というものがあることを前提にして書かれている書物なのです。
聖書を読み、神を認識するということは、聖書の字面だけを追っていても、それだけではダメで、イエスの復活の御霊、聖霊の働きによって書かれたのが聖書でありますから、やはり永遠の存在であるイエスの復活の御霊、聖霊が、御言葉を通して読む者に働かれる必要があります。
神の存在が認識できて、永遠の世界があるということがぼんやりとでも認識できたからといって、具体的にどのような姿になのかは、まだ聖書でも明らかにされていないからわかりません。すべてがあらわにされていないのです。
時間の中にいて、時間と空間の枠の中でしか思考できない人間にとって、時間を超えた世界の姿は想像を超えたことであり、理解できないのは当たり前です。
考えても意味のないことなのでしょう。たとえ聖書であらわにしてもおそらく理解できないのでしょう。
たとえ分からなくても、イエスを信じることが出来たら、イエスを通して、神を認識し、神を信頼することができる。そうすれば、御子イエスにすべてを委ねることができる(第一ヨハネの手紙第3章2節)。
聖霊は、聖書の御言葉を信じて読む者に内住され働かれる。
イエスは神から御言葉を授かりわれわれにその御言葉を述べ伝えられる。われわれはイエスの御言葉が書かれた聖書を読むとき聖霊が働き、神・イエス・読む者の三者は御言葉のゆえに一体となる。
このようにして初めて人間は、イエスを、神を信頼し、自己のすべてを神に委ねることができる。その時に初めて、永遠の世界に対する不安も取り除かれると考えます。
神が人間に「永遠の思いを与えられた」ということは、希望をもつことができるということ。だから、神は来世に希望を持ちなさいと言われているのでしょう。だから、希望はイエスを信じることにあるといわれているのだと思います。
新約聖書黙示録第21章3節、4節に、今の地球が滅び去った後に出来る新しい天地の姿が書かれています。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。
神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」
ウエスレーの言葉を紹介します。「われわれが無限の空間あるいは無限の存在期間を考えるならば、われわれは、その前に萎縮して無になってしまう。
一日及び百万年は、神に於いては同じである」。「神は宇宙を統轄すると等しく個人個人を統轄したまい。個人個人を統轄すると等しく宇宙を統轄する」。このように、目に見えないものが目に見えるものを支えている。
そして、「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。」(旧約聖書コヘレトの言葉12章7節)。
死は、霊魂に終わりをもたらすものではなく、死は、それらの存在様式を変えるに過ぎません。しかし、体は土の塵で造られたものであるから、塵に帰ります。
そのとき、霊魂は清められてこれを授けし神に帰るのです。霊魂は生まれ故郷神に帰ることにより、この世の疲れは癒される。
永遠に生きることが辛いというのは、時間が支配しているこの世に生きているからで、時間のない世界に行けば、きっと、逆に安らぎを覚えるのではないだろうか。そこが霊魂の生まれ故郷なのだから。
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