神に出会うということ
この投稿文は、以前投稿していました「アメージング・グレース」を見直しましたところ、大幅に内容を修正することになりましたので再度投稿します。
クリスチャンでない方もご存じのあまりにも有名な「驚くばかりの(Amazing Grace)」という讃美歌があります。
有名なこの曲の作詞者であるジョンニュートンの生涯を紹介します。曲はよく知っているが作詞者のことは殆ど知らない人が多いと思います。下記に簡単に紹介します。
一人の男が挫折から神を知り、驚くべき神の恵みを証ししつつ、82才の生涯を閉じました。神を知り変えられた人の一人です。
原詩を読み思うことは、このようなことがあるのですね、人生は、だから面白いのですね。なんだかこの歌を聞いていると、嬉しくなります。
原詩をじっくりと読んだことのない人は、末尾に記載しておきますので、もう一度、じっくり読んでください。歌ってみてください。意味を黙想してください。心から楽しくなります。
彼は神を知ったのです。神を知れば人生が変えられるという事は本当なのです。これは彼が聖書を読んだ際、聖霊が聖書のその御言葉に働かれた証だと思います。神の働きを認めない人はこれを狂言だとか、妄想だとか言われる方もおられます。
これが狂言なら、妄想なら、わたしは思うのです。人生とは何でしょうか。学校へ行き、会社に勤めて、結婚して、家庭を持ち、子供を産み、歳をとり死んでいく。
人々はその中で数多くの人と出会い、また別れさまざまな人生模様を描きながら、喜怒哀楽の中で生きています。
これが人生ですか。確かにそれも表に現れている人生の一部です。でもそれが人生のすべてではないし、本当の目的でもないのです。おそらく聖書はこのように言っていると思います。
それらのことはあなたの創造者である神に出会うためにあるのだと。あなたは神に出会い、キリストに似た者に変えられためにあるのだと。
神に出会うと人の一生を根底から変わるのです。人の一生を根底から変える力って凄いでしょう。私も今、驚くべき御業が我が身になされるようにと毎日聖書を読んでいます。
<作詞者の略歴>
彼は、1725年7月24日生まれのイギリス人です。彼の母親は熱心なクリスチャンでした。彼女は息子が牧師になることを願い、3才の頃から聖書を教え始めました。
しかし、彼が7才の時に母親は亡くなってしまいます。大きなショックを受けた彼は、反抗期を迎えると共に、非行に陥り学校も退学、船乗りになり、 放蕩にふける青年期を送ります。
乗船する船を次々と変えて、行き着いたところが奴隷売買という仕事でした。アフリカで黒人を捕らえ、船底に押し込め、反抗せぬように折檻し、西インド諸島やアメリカで売りはらう。1748年の3月10日、彼はアフリカからイギリスへの帰路に大嵐で船が難破寸前という状況に遭遇します。
その時、彼は自分の口から想像もしなかった言葉が出たことに衝撃を覚えます。「私を助けて下さい。私の生涯を全てあなたに捧げます。」と必死になって祈っていたというのです。無意識に祈りの言葉が出ているのです。
わたしも、聖書を読み神を知りました。これはわたしの体験ですが、ローマ時代のクリスチャン迫害のところを読んでいて無意識に悔い改めの言葉が出たことがあります。
無意識のうちに涙を流して自分の内に巣くう罪を悔い改めました。迫害を見るのを娯楽として楽しんでいるローマの民衆の心と自分の心が時間を飛び越えて一体化したのです。
そのことをきっかけとして、わたしはしばらくの間嗚咽を伴いながら涙を流し、自分の心の奥底からこみあげてくる罪なる思い、罪なる存在を悔い改めたのを覚えています。
聖書を読み神を知った時の衝撃もすごかった。神は命だと知りました。命は輝き躍動するものだと知りました。そのことを知った時の驚きと喜びはどのように表現して良いのか分かりません。
わたしの周りのものが何もかも輝いて見えるのです。草も木も鳥も生きとし生ける者の命の一体感を感じるのです。
その後何日かは、空を見上げながら、ハレルヤ、神様感謝しますと叫びながら、とび跳ねながら通勤していました。生かされていることの歓びを知ったことがたまらなく嬉しかったのを覚えています。
わたしの場合は、神に出会ったと思っても、聖書との格闘はその後十数年、未だに続いています。でもこの作業はこの世に生きている限り続く真理への旅だと思っています。
聖書には人をひきつけてやまない、なにか不思議な魅力があるのです。
嵐が去って彼は助かり、そして彼は奴隷船の船長に昇格はしますが、まもなくその仕事から離れます。彼はクリスチャンになり、その後の人生を、嵐の中で祈り誓ったようにひたすら神さまに捧げます。
39才の時、英国国教会の牧師となり、イギリスで神様の恵みを取り次ぐものとして神様から用いられていったのでした。
「アメージング・グレース」とは罪の中に陥っていた(奴隷売買という)、救いようのない自らを 罪の中から引き上げた、驚くべき神の恵みを歌ったということです。
きっと、彼は奴隷売買という仕事の中で、罪にさいなまれて毎日を過ごしていたと思います。奴隷は船倉に押し込められて最悪の環境で運ばれるのですが、無事に目的地に着くまでは多くの奴隷が亡くなったということです。
神と出会い、新たな生き方を見つけた1人のはぐれ者。美しい賛美歌の背後にある、そんな人生のドラマを胸に、この曲にあらためて耳を傾けてみませんか。
人間は自分が汚れている、自分は罪人であるということが神の霊、聖霊がそのことを示して下さるまでは、分からないのですね。気がつかないのですね。
言い換えれば、それほどこのわたしたちが住んでいる社会は罪にあふれているといえないでしょうか。罪の中にいれば罪がなんであるか分からない。
社会の仕組みが罪を生み出している。当たり前のように毎日人々と交わしている会話の中で、仕事の中で、地域社会の中で知らず知らずのうちに罪を犯しているといえます。
代表的な罪を示す聖句、マタイの福音書第5章27節「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」
これは思いの罪も罪だと言われているのです。ここまできたら、罪を犯していない人など一人もいないと思います。出来ないことを言われてもどうすればよいのですかと、問われそうですが、イエスは神を信じれば出来ると言われるのです。
イエスは、神の支配する恩恵の世界ではそれが当たり前だと言われているのです。罪人は罪人を赦せない、赦せるのはわたしたちを造った創造者である神だけだと言えます。
罪が赦されなければ、いや赦されたことを信じ、変えられなければ神の国に行けません。
毎日のように起こる、殺人、人類の歴史は殺戮と戦争。神様はどこにおられるのかと言いたくなりますが、神様は必ずおられます。
そして、わたしたち一人一人に、もちろんイエスを信じている人にも信じていない人にも、知らない人にもすべての人に語りかけておられると思うのです。
あなたはその中で何を学ぶのですか、あなたはその中で何をするのですか、目を覚ましなさいわたしはここにいる、と呼びかけておられると思うのです。
アメージング・グレース原詩
なんという優しい響き こんなにけがれた私をも救ってくださった
暗闇を歩いていた私に神の御手が差し伸べられた 盲人に一筋の光が与えられたように
神の恵みは私の心の恐れを取り去り 受けとめてくれた
信じた瞬間,この恵みの素晴らしさが 私を取り囲んだ
多くの患難,誘惑をへて 私はここに辿り着いた
神の愛が私をこんなに平安で清い世界へと 導いてくれた
帰るべき家へと辿り着いた 神の約束
神は全てのことを益とする 御言葉は私の志を固くたたせ 命が続く限り盾となって私を守り 共に歩んでくださる
この地上での命が朽ち果てようとも 私は神の子であり 喜びと平安の覆いが私を包む
この世界が滅び 太陽が輝きを失おうとも 神は私を呼び給う
とこしえまでも私は神のもの 私達は神の計画のうちに 1万年もの間,輝き続けている
太陽とともに いつまでも,いつまでも神の恵みを歌い続けよう
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