誰が救われるのか
「運命について」に関係します。なぜなら救われるのは運命でしょうか、そうではないのでしょうか、という問題だからです。
最初に救いの意味について書いておきます。
キリスト教に於いて救いとは、この世の多くのご利益宗教が説いているものとは全く違います。病気とか貧困とか人生のいろいろな悩みや苦しみからの救いのことでもありません。
ここで言っている「救い」は、人類が神に罪を犯して神から離れた結果の罪の生活と、死と死後の永遠のさばき、つまり原罪からの救いを意味しているのです。
それは罪を赦す神の愛と憐みを、全人類にもたらす神の計画を言います。
ですから、これは、そのことを知ってるか否かにかかわらず、あなたも含めて「すべての人」と関係があるのであり、「私には関係ないですよ」とは言えない重大な真理なのです。
それは人間は造られた存在、被造物であり創造主の意思に沿って生きていないことに原因があるのです。
信仰は神様からのもの、とか救われるのは神様に選ばれたからとよく言います。
たとえば、第一テサロニケに信徒への手紙第1章4節「神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています」というようにイエスに御言葉を信じて信仰を持った人を「選ばれた人」というように表現しています。
これは、神に選ばれたという意味でこのような表現は他にも多く見られます。
だから信仰を持つのも神に選ばれたから持てるのです。
たとえば、イエスを信じた人は、イエスの十字架による罪の贖いで、罪から救われて天国行きと永遠の命が約束されています。
だから、クリスチャンは救われた喜びをいつも証するのです。他人も救われて欲しいと思いイエスを信じるよう伝道するのです。
人間がイエスの教えを信頼して救われる資格を得られる期間が、生まれてこの世に肉体を着て生きている80年くらいの間だけだとしたら。そのチャンスに恵まれない人はたくさんいます。
人類誕生から現在までに生まれた人々のほとんどは、イエスの教えに触れる機会がない社会に生きた人々と言えます。
過去・現在・未来の人類すべてをみるとイエスを信じた人間より、イエスを知らない人間の方がはるかに多いのではないでしょうか。
そうすると、救いが、イエスの言葉を聞いて、信頼して、その結果救いを受けるという方法しかないのなら,そのイエスの教えを耳にする機会がなかった人は、救いのチャンスもないことになります。
生まれた国、生まれた時代が神の御業ならイエスの言葉に出会わなかったのも神のご計画と言えます。
にもかかわらず、すべての人間に救いの(イエスを信じる)チャンスがあたえられている、というのなら、そういう考え方は、上記のような本人の責任によらない条件がなくならないと無理があると思います。
その矛盾をなくすには、霊が肉体を抜け出た後にでも、イエスの教えに触れて信頼して救われることができる、というようなことでなければなりません。
救われるかどうかは大変な問題なのですが、聖書では、救われる人は、ある程度選ばれているということになっているので、人類全員が救われるのではないともとれます。
ある人が「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と救われる人の数を尋ねたとき、イエスは言われました。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」(新約聖書ルカによる福音書第13章24節)と応えられています。
この聖句をよく読むと、イエスに質問した人は、救われる人は多いか少ないか、全部か一部かという質問をしています。
人の救いを第三者の立場から問題にしていることになります。それに対してイエスは、救いを質問者自身の問題として、数に言及しないで、自分が狭い戸口(苦難に満たされた道の意味)から入るように求めておられます。
誰が救われるかは数の問題ではなく、自分の問題なのです。
だからこの聖句の解釈は、古来二つに分かれているということです。
一つは、神は愛であるから、結局最終的には、すべての人間が救われるという「万人救済説」です。もう一つは、神は救われる者と滅びる者をはじめから予め定めておられるという「二重予定説」です。
「万人救済説」も「二重予定説」もこれをそのまま受け止めると、もし、すべての人が救われるのが、または救われる人が決っているのなら、救われる人をできるだけ増やすための伝道の必要はなくなり、無意味になります。
二重予定説は、同じ人間に生まれてきたのに、救われないことが、地獄行きが決っていながら生まれてくる人もいるなんて、人間の目からみると不公平ですね。
神の創造は新しい命の創造とわたしは理解していますから、そういう考え方はおかしいと思います。
創世記第1章28節「神は彼らを祝福して言われた。・・・」と1章31節「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」のみ言葉と矛盾すると思うのです。
聖書の神は愛の神であり、創造の神です。新しい命を創造しょうとされているのです。そのような神が、地獄に送るために命を創造されることはないと思います。
わたしなりの救いの解釈は、予め救われる人は決っているかもしれませんが、予め救われると決っていない人でもクリスチャンなどのとりなしの祈りなどにより変更は可能と思っています。
そして、最終的には万人とは言いませんが、普通の人はほとんど救われるものと信じています。造られた限りは、誰にでも必ず救いのチャンスは与えられ、全ての命が救われるまで神は待って下さると思います。
それに、救いにはこの地上あるいは来世においてその人その人の最適の時があると思いますので、この地上ですべてが決まるわけではないと思います。
だって、そうでしょう、神が愛なら、人間を創造するのに地獄へ落とすために人間をわざわざ創造することなどされるのでようか。それなどナンセンスです。
もし、そうであるなら「あなたは高価で貴い」としわれた神の言葉はうそになります。神は滅ぼすために命を創造されないと思います。創造の神です。
ただし、一部の人は、ご計画があって、この地上に生きているときに救われることを神が望んでおられるのも確かだと思います。
地上で生きているときに救われるのは、それ相当の重要な意味があるのだと思います。
そうでないと、イエスの宣教命令を受け、弟子が迫害にあいながらもこの2000年間何代にもわたってイエスの教えを伝えている労力は何ら意味のないことになってしまいます。
また、聖書には地獄がどのようなところか詳しく書いていないし、裁きについても量刑は色々あると思うし、神はそこらのことは隠されています。
ただ、新約聖書黙示録第20章12節には、イエスを生きているうちに信じなくて死んだ人は、その人の律法で、行いによって裁くとなっています。
信仰を持つのも神の働きだと言われていますので、信仰はあくまでも個人の問題として捉えるべきだと思います。聖書に記載されているイエスの教えも読む者個人に語りかけているとして捉えることが必要だと思います。
人の信仰よりあなたの信仰はどうかということです。教会に集っているから救われるのではなく、その人の信仰により救われると言うことだと思います。
救いも第三者の問題ではなく自分の問題として受け取るとき、一人でも滅びる者があるとすればそれは自分だ、すべての人が救われるのでなければ自分は救われないのだという、
自分を罪のどん底に置いて救われた者は、「万人救済説」をとらざるをえないし、自分が救われる根拠は自分の側には何もないとして救われた者は、それなのに救われているのは、
神が自分を救いに定められた(=選ばれた)からだという他はない、と告白する「二重予定説」をとらざるをえません。
しかしですよ、運よく自分が救われて天国へ行っても地獄で愛する人々、いや人々が地獄で苦しんでいるのを見て心は平安でいられるでしょうか。涙はぬぐわれるでしょうか。
もし、涙がぬぐわれるならば、そこに神の大いなる恵みがあると思うのです。
また、最近では、親の虐待のため幼い命をなくす子供がたくさんいます。世界も見れば、飢えで亡くなる子供がたくさんいます。
それらの子供がイエスを知らないからと言って、良い行いをしていないからと言って地獄へ送られるなら、そのような宗教はおかしいと思います。それこそ神も仏もないものかと叫びたくなります。
イエスを知らなくて死んだ人は行いで裁くとなっていますが、幼児とか子供が亡くなればその子たちの裁きはどうなるのでしょうか。イエスを知らないからと言って地獄へ行くのでしょうか。
行いで裁くと言っても、その行いはあくまでも自分で自分の責任を取れる年齢になってからの行いだと思いますので、その子たちの行いは裁きの対象にはならないと思うのです。
その子たちは悔い改めるチャンスも与えられないまま、神の御心により命を取られるのですから、わたしはそのような幼児とか子供は裁きの対象から外されると思うのです。このような考えはおかしいですか。
その様な状態で心が平安でいられるならばその人の心は自分だけ良ければよいとする、自己中心的な人間そのものです。
そのような人は、神の愛から最も離れた人間と言えないでしょうか。
わたしは地獄へ行く人は、神から行かされるのではなしに、自ら進んで行く人、地獄の方が居心地のよい人だと思っています。
そのような苦しいところへ自ら進んで行く人はいるのでしょうか。おられてもほんのわずかでしょう。
わたしなど、バプテスマを受けて教会に通っているけれども信仰はどうかと問われれば心もとないものがあります。何があってもわたしはイエスを信じて付いていけるかといわれると、・・・・。
とくに「狭い戸口から入るように努めなさい」といわれればこのような甘っちょろい信仰ではどうなるのか心配です。裁きのときに、お前はそれでも信仰を持っているつもりか、といわれかねません。
このようなわたしですから、やはり「万人救済説」がありがたいです。まあ、「万人救済説」をとるにしても、聖書を読むと、この世に生きているうちにイエスを信じて救われるのが最善で、神が最も望まれることだと思いますが。
なお、わたしはキリストを知らない人でもその人の行いが御心に沿っていれば、その人の霊魂がキリストを知っていると言えると思うので、そのような人は救われて永遠の命に与れると思うのです。(参考聖書箇所ローマの信徒への手紙第2章14節以降)
反対に今キリストを信じていると言っているクリスチャンでも、はたして裁きの時に無条件で天国へ行けるとは限らないと思うのです。
キリストに、わたしはあなたを知らないと言われるかもしれません。それを決められるのは、裁き主キリストだけです。牧師でもないし、自分自身でもないのです。
ただし、わたしは次の世に行ってからでも救われるチャンスがあると思っていますが、どのような状態で救われるかは書いていないし、次の世で救いのチャンスがあるとしても、この世で救われた者との違いも書いていませんので、やはりこの世に生きているうちに救われた方が安心なのは確かだと思います。
といっても、救いには人それぞれ神様が決められた最善の時(今世か来世かはわかりませんが)があるのですから、救いに預かるときは、自分でどうこうできる問題ではないと思います。
その結果、無条件で天国に行けるかどうかはキリストが決められることですが、その方が現世を豊かに過ごせると思うのです。
最後に、もしわたしの考えが間違っていたとしても、わたしは万人ではなくても普通の人はすべて救われることをあくまでも祈りたいと思います。
自分の親兄弟を含めて、この世に生まれたほとんどの命が地獄で苦しんでいるのに、自分だけが救われて、心が平安でいることなどわたしにはとてもできません。
神は裁かれるが必ず救済されるかたです。そのように信じたいと思います。
最後に、わたしは思うのです。弟子ペトロがイエスに「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。
七回までですか。」(マタイの福音書第18章21節)と尋ねたら
「イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」(同22節)と答えられました。七の七十倍つまり無限に赦しなさいと言われたのです。
それも無条件にですよ。そのように弟子たちに教えられたイエスです。この聖句から見ても、わたしは最終的にはほとんどの人が救われると思うのです。
その根拠となる聖句は、ヨハネの福音書10章16節「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。
その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」です。
この囲いと言うのは宗教のことです。そして、そこに入っていない羊(ほかの宗教の人も入る)も羊飼いであるイエスの言葉に導かれて救われるのです。
そして、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(新約聖書第1テモテへの手紙第2章4節)。
もう一つ、「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、 すべての舌が、イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。 」(フィリピの信徒への手紙第 2章第10節と11節)。
最後にもう一つ、「そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。」(使徒言行録 / 10章34節)
これらの聖句など、まさしく全員救済とまでは言いませんが、普通に生きているほとんどの人は救われることを語っているのではないでしょうか。
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ダビデの日記というブログに予定説について詳しく書いてあります。悪人を滅ぼす事によって神ご自身の義と怒りが示されるのではないでしょうか。
投稿: OM | 2019年6月13日 (木) 11時37分
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投稿: OM | 2019年6月13日 (木) 11時36分