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2010年5月 1日 (土)

続・運命について

困った時に、慰めの言葉として、「人生何とかなる」とよく言われますが、本当に何とかなるのでしょうか。ある知人が家を買いました。凄いねと驚きますと、お金は天下の回り物、お金なんて何とかなる、といわれました。

よく聞いて見ると親に必要金額のほとんどを援助してもらっていたのです。もう、五十を過ぎたオッチャンが。これを何とかなっているというのでしょうか。

わたしは、このような状態を何とかなっているとは思わないのです。親とか人に迷惑をかけて何とかなっているというのはおかしいと思いませんか。親の援助ももらえず何ともならない人もこの世にはたくさんおられます。


世の中にはなんともならずに、自殺する人も、ホームレスをしている人もたくさんいます。だからむしろその人は、甘えられる親がいることに感謝すべきだと思います。

そういう親のもとに生まれたのは神の計らいですから、神にも感謝するべきです。 

運命と宿命という言葉を辞書で引くと、運命は「人の意志によらず、幸いや不幸を与える力。またそれによってもたらされる現象、事柄、めぐり合わせ」とあります。宿命は、「前世から決っている運命」と書いてありました。

神はその人の人生のすべてをご存知ですが、人間はロボットではないのですからなにもその人のすべてをコントロールされているわけではないと思います。ただ大事な時に方向を示され導かれることはあると思います。

でも、その導きに従うかどうかの選択はその人に任されていると思うのです。だから、いくら神がこの世を支配されているといっても、すべてを神様に委ねているといっても、自分の人生には自分が責任を持つべきだと思うのです。

たとえば、いまの不幸が、確かに今だけを見ているとその人の意志ではどうにもならないことだと思いますが、その不幸を招く元を作ったのはその人ということが大いにあると思うのです。

また、何とかなるといいながら何ともならないこともある。これは運命でしょうか、対応できる、あるいは対応できていた不幸は運命ではないでしょう。

たとえば、生まれた国はその人が選んだのでもありません。どの時代に生まれるかも人の意志ではどうしょうもありません。

人の生き死には神の支配のもとにあり、それはその人の意志ではどうにもならないことですから、それらのことは運命というのでしょう。

では、その人を取り巻く家族とか職場とか知人友人関係はどうでしょうか、これらはその人に対処の選択の余地がありますから運命ではないのでしょうか。

でも、出会いは神の御業とも言いますから運命と言える出会いもあるかも知れません。

しかし、その人の意志で対処できようができまいが、神がこの世のすべてを支配なさっているという観点から見るならば、起こったことの原因がなんであれ、

いまここにこうしているわたしは、御心に適っている限り、すべて神様の御業、つまり神様のご計画の内といえるでしょう。だから運命の中でわたしは今ここでこうしているのです。

聖書では、自分の努力ではどうにもならない運命を神様の賜物とか御業とも言います。

この世の出来事はすべて神が支配されておられ、病もすべてではありませんが神のみ業(たとえサタンの仕業であっても神がそれを許されているのなら神の御業といえる)もあると思います。

世にいわれている前世の悪行が病の原因という考え方はありません。

聖書には、世界の終末がどうなるかを記載しています。その上で、人間は死ねばどうなるとか、この世の生き方を教えていると思います。

すると、先の事でも、いま起こっていることでも、聖書に書いてあることを信じて、意識して相応に対処すれば、人生をある程度変えられるということになります。

それが人間の努力では対処できないものだとしても、それがどういうものか、原因は何か、は聖書という書物のおかげで、知ることができると思うのです。

ところが、聖書を詳細に見ていくと、聖書そのものの中に、神が人間に教えない神様の意志もある、と書いてあるところもあるのです。次の聖句をご覧ください。

「隠されている事柄は、我らの神、主のもとにある。しかし、啓示されたことは、我々と我々の子孫のもとにとこしえに託されており、この律法の言葉をすべて行うことである。」(旧約聖書申命記、第29章28節)

ここで「啓示されたこと」とは、聖書(旧約聖書)に言葉として記録されたことでしょう。これは「この律法の言葉をすべて行うことである。」となっています。

いわゆる旧約聖書ですから、イスラエル民族に対し律法に従順に生きなさいということでしよう。 

ところが、それ以外の事柄もあると、聖書はいっているのです。それが「隠されている事柄」なのです。そしてそれは、我らの神、主のもとにある、といっています。

同じ御言葉が、新約聖書にもあるのです。父なる神の御子とされているイエスに対しても、父なる神は知らせないことがある、という。

色々ありますが一つ取り上げますと、たとえば、7年間の大艱難が始まる時期がそれです。

「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ父だけがご存知である。」(新約聖書マタイによる福音書、第24章36節)。

これはいわゆるこの世の終り、終末が近づくと、7年間の大艱難がやってくることをイエスが弟子に教えた場面の言葉です。

イエスは将来それが起きることは知っています。だから起きるということを、弟子たちに教えています。
だが、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。」というのです。

これらのことは、わたしたちが生まれる前から起きることが決っていて人の意志ではどうにもならないことですから、まさに運命ですね。

では我々はそういう起きることが決っているが、いつ起きるのかは聖書にも書いていないことに対してどう対応していったらいいのでしょうか。

聖書にも書いていないことは神が意識して隠されていることで、そのことに関しては、知ることができないからそれを理解することもできないし、それに対して祈ることもできません。

だから、そのことは、人間がどうであれ神様の意志としてなされることだということなのです。対応不可能です。

ある時がきたらそれは明かされるかもしれないが当面人間はこのような運命に対してどうしたらいいでしょうか。もちろん、そのことが世界の終末に関係がなくても人生で日常に起こることでも同じことです。

答えはただ一つ、神はわたしたちを支配されているのですから、神を信頼すること。

知らされていないけれども、聖書に記されたことを真面目に守って生きていれば、父なる神はよきに計らってくださる。こう信頼するのが聖書信仰の核心のようです。

で、つまるところ「聖書にも記されていないことがある」となれば、人間個々人の人生は、その人が生まれる前からあらかじめ計画されているのかもしれない、ことになります。

計画ですよ。決定ではありません。決定は人がするのです。人には自分の意志でどうにもならない、聖書にも書いていない運命があるかもしれません。

このように考えてみると、この世の出来事の中で人の意志ではどうしょうもないこと、つまり運命は神の隠された意志といえるのではないでしょうか。ならばどうしょうもないことは、神を信頼して生きるしかないと言えます。

いろいろ書きましたが、この世の出来事のほとんどは自分が過去に選択した結果であることが多いように思います。

自分の知らないところで決められたこと、すなわち生まれた時代、生まれた国、生まれた親、持って生まれた知能、身体機能などは自分の力ではどうにもなりませんから運命なのでしょう。

それらは神がその人に下さった賜物とも言えます。そういう条件の中でわたしたちはどのように生きるかが問われていると思うのです。

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