霊について
人は、とくに信仰を持っていない人は、衣食住に満たされないうちは、あるいは、この世の価値、財産とか地位とか、名誉とかに対する欲求が強いうちは、「自分は何のために存在しているか」なんて考える余裕などないと思います。
それは、自己を主張することに、つまり人と比べることに、人との競争のために動物的本能が前面に出ている状態だと思います。
そのようなときは、今特に問題となっていないことを(少なくとも本人はそのように思っている)意識できないのかもしれません。
そのようなことよりも、人に勝つことが、明日どうして生きていくかの方が問題だからです。
だがそれらが一応充たされると、衣食住足って礼節を知る、といいますが、人の意識は、本性的に持っている自己の存在の意味に目を向けるようになると思うのです。
自己の存在の空しさへの意識が頭をもたげてくる。人間はそういう風に出来ていると思うのです。
なぜこのように申しますかといいますと、人間は霊と肉体によってできているという前提でものをいっているからです。そして、人間の本体は霊だと思うからです。
聖書には、いろいろな霊が出てきます。まず神の霊である聖霊、神に背いた天使の霊である悪霊(サタンとその配下の霊)、そして人間の霊があります。
いま日本は、空前のスピリチュアルブームで、健康ブームということです。衣食住が足りて、競争も一段落してふと気がつくと何だか心が満たされない。
生活には困らないし、そこそこ楽しい。だから、健康でいたい、長生きしたい、できたら死にたくない。だけど、いつかは必ず死ぬ。
そのときには、今持っているものは全部置いていかなければならない。そうであるなら、なぜ俺はこんなに苦労しているのだろう・・・・。
そう思うと、今まで意味がある、価値があると思ってしてきたことが何だか無意味に思えてくる。人生って何だろう。生甲斐ってなんだろう・・・。
そのようにして、先のスピリチュアルブームとか健康ブームがおこるのではないでしょうか。
生活が裕福であればあるほど、財産を多くもてば持つほど人間の意識は、それらを守ることに、またより多く手に入れることに捉われて、自己の人生が有限であることを意識するようになると思うのです。
歴史を見てみると、権力をもったそのような人間がどれほどあらわれたことか。何時まででも今の状態を保ちたい
という気持ちが、どうせ死んでおしまいじゃないか、という否定的な意識に強く脅されるようになっていく。
心は空しさを増し、生きている意味を求めるようになる。永遠に生きるのが無駄だと分かっていても、無駄な抵抗をする人もいる。
そのような人たちに霊の話をすると、いろいろ神秘現象をバカにしていた人が、霊って本当にいるかも知れない、と思えるようになる。
そこに何か心を充足するものがあるかも知れないと思うようになるかもしれない。
そういう人でも、宗教の話になると敬遠し、軽い方が何だか安全でとっつきやすいのか、スピリチュアルとか新興宗教のほうに興味を持ち、ブームになる。
キリストを信じるものが増えないのは、小難しい聖書の話なんか聞いていられない、というのが本音でしょうか。とっつきにくいのでしょうね。
それともキリスト教会が悪いのかな。だけど、わたしはそう言う人に言いたいです。キリスト教は、昨日や今日生まれたそんじょそこらの宗教とは違う。
2000年という歴史を生き抜いてきた、世界人口の約三分の一以上が信じているというその重みが違う。そこに何か本物があると思いませんか。新興宗教などで、権威付の為に聖書の良いとこをとっているところもあるように聞きます。
人は霊能力者の霊能力を見て、それは凄いとか、不思議だと思いますが、ただそれだけです。
スピリチュアルカウンセラーといわれる方も、良いことを言われますが、それを聞いて生きる意味が分かったでしょうか。
たとえ分かったような気になっても、せいぜい一時の自己満足で何も変わらないと思います。素晴らしい教えを聞いただけで、人は簡単に変われるものではありません。そういう宗教を道徳教と言うのですね。
霊の存在論も、おそらく上っ面だけだけだと思います。ところが、キリスト教には、霊とか神の存在論があります。
そして、教祖のイエスの教えが真実であることをイエスは身を持って(十字架による死とか復活)証しされました。本物なのです。嘘だと思われるなら、だまされたと思って信じてみると、本物だと確信できると思います。
イエスは、人間は肉体と霊体とからなっている、と教えました。こういうと、霊的なことに興味がない人は、おそらく殆どの日本人は、怪訝な顔をして「あ、そう」で終わるのではないかと思います。
まあ、見えない世界のことについては、物事考えようだからね。人生、思いようひとつ。それで、幸せならば、そう思っていればいいのじゃない。とまあ、こういうふうに・・・。
スピリチュアルブームにのっている人でも、聖書とか言い出すと遠ざかってしまう。いわゆる重たいのは嫌なのですね、軽いのがいいのですね。
読みやすくて楽しくなるのがいいのですね。霊の世界のことは、本当はそんなに簡単なものではないのですがね。重大なことなのですが。
「スピリチュアル」で辞書を引いてみると、「霊的な、精神的な」と言う意味の形容詞で、とくにキリスト教における神の啓示、預言などを表し、極めて神聖な意味を持つ。
となっていますのにキリスト教に興味がないなんておかしいね。スピリチュアルブームに乗っている人なんか一番に聖書に興味を持っても良いのにね。
現代では、人の霊が存在することは、科学的に確かめられています。西欧では19世紀の半ばから心霊科学(スピリチュアリズム)がスタート、つまり心霊現象を科学的に究明しようという研究です。科学的にというのは、経験的に確かめられるように、と言うことです。
興味がある人は本を紹介します。「オーラル・ロバーツ『第4の人』」、これはオーラル・ロバーツの悪霊との戦いの実例記録です。
「迷える霊との対話」。これはキリスト教とは特に関係はないのですが、精神科医が自分の妻女に迷える霊を憑依させてその霊と会話しながらその霊の迷いを取り除き行くべきところに導き治療した30年にわたる実例記録です。
この本の前書きを引用しますと、「本書を世に出すに当たって、著者の私には主義・主張や信仰上の説を広めようとする意図はさらさらない。三十有余年にわたって正常・異常の両方の心理学を実験・研究してきた成果と、そこから引き出される見解を披露しょうとするものである。それが、とかく曖昧である死後の生命と、それが現実の生活に関わっている側面に光を当てることにあると思うからであり、良識ある人ならばきっと、その重大性を認識されるものと確信する。」
これらの本に書かれていることがすべて真実かどうかは知りませんが、霊が存在することは事実だと十分確信できると思います。
聖書を本格的に勉強する前に霊の存在についは、いろいろ勉強しましたので、わたしの頭の中は、人には肉体だけでなく、霊が存在するというのは、もうほとんど常識になっています。
もし、霊が存在しなかったら、わたしのこの十年間の聖書の勉強とその結果、信仰が無意味になってしまいます。わたしの聖書解釈は、信仰は霊の存在がなければ成り立たないのです。
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