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2010年4月15日 (木)

献金の話

今日は、クリスチャンになれば教会から真っ先に求められる什一献金について考えてみます。

この問題は、その必要性を明確に語られているけれどももう一つ納得がいかないと言う何とも悩ましい問題です。

思うところを少し詳しく書いてみます。

それは、キリスト教を信じるについて、教会での献金に対する不信感が大いにあると思うからです。

また、信者が増えない大きな理由でもあると思うからです。

 

さて、什一献金とは収入の十分の一を毎月神様に、実際は教会に献金するのですが、その説明が教会によって微妙に違うのです。収入と言いましても、手取りと額面、どちらかと言う問題があります。

 

教会では明確にされていないと思います。わたしは手取りとか額面と言う問題ではなく、もともと十分の一ときめるのに問題があると思っています。

 

また、教会では献金は救いの条件ではないと説明されていますが、言葉はそうなのですが、集金宗教がはびこる昨今、その説明には慎重さが必要かと思います。

教会では、献金を沢山すれば、天に宝を積むことになり祝福されると言われている所もあります。

 

それなら貧しくて献金できない人とか、わずかしか献金できない人は、祝福されないと言われているようで、自分が責められているように思うのです。

 

十分の一献金といいましても、月収50万円の収入がある人が十分の一である5万円を献金するのはやさしいのですが、月収20万円の人が2万円を献金されるのは大変です。限界生活費と言うのがあると思うのです。

 

それは収入が多かろうがすくなかろうが最低限の生活に必要な金額なのです。

 

20万円の人はそれを稼ぐのに朝早くから夜遅くまで働いて得られた収入です。その苦労は並大抵ではありません。収入の少ない人ほど労働はきついものです。

 

献金が救われるための条件ではないと言いましても、現実には献金を少ししかできない人は暗黙の内に排除されているのです。

 

教会は、目に見えない排除構造を持っていると言えないでしょうか。99匹の羊を置いて1匹の羊を救いに行かれたイエス様の話はどうなったのでしょうか。

 

天に宝を積むとも言われますが、聖書を見てみますと、十分の一の献金をするのが天に宝を積むことになるとはどこにも書いていません。

 

マタイの福音書19章21節「イエスは言われた。「もし、完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。・・」

 

この聖句は、イエスを信じてついていくのに必要な決意を語られたと思うのですが、イエスはこのように貧しい人に施すことが天に宝を積むことだと言っておられます。

 

イエスが導いておられる人は、貧しい人だと思います。この貧しい人と言うのは、怠けて貧しいのではなく、一生懸命に生きてもその人の責任ではないのに報われない人とか、

 

現在社会は、勝者と敗者が生まれるのは当たり前の社会構造ですから、その中で当然生まれる貧しい人と言うことだと思います。

 

そのような社会から排除され、神にしか頼るべきものがない人、地位とか財産とか権力など頼るべき何ものも持たない人、またそれらに頼ろうとしない人。

 

それにお金持ちでも心の貧しい人も、つまり、お金とか地位とか権力を奢らずにこの世の真理を求めている人たちのことを言うのだと思います。

 

新約聖書の福音書から献金に対するイエスの言葉をひらってみます。

 

ルカの福音書第11章42節「それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷(はっか)や芸香(うんこう)やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、(律法の中で最も重要な)正義の実行と神への愛は(慈悲、誠実など)はおろそかにしているからだ。

 

これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物はおろそかにしてはいけないが」

 

この聖句は、旧約聖書に生きるファリサイ派の人々に対するイエスの言葉です。

 

だから十分の一なのだと思います。当時はまだ新約聖書はなく現在のような組織のキリスト教会もなかったと思います。

 

旧約聖書からひらって見ます。

 

レビ記第27章31節「こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。 」

 

民数記第18章21節「見よ、わたしは、イスラエルでささげられるすべての十分の一をレビの子らの嗣業として与える。これは、彼らが臨在の幕屋の作業をする報酬である。」

 

24節「わたしは、イスラエルの人々が主にささげる献納物の十分に一をレビ人に彼らの嗣業として与えるからである。それゆえ、わたしは彼らに、イスラエルの人々の間では嗣業の土地を持ってはならない、と言ったのである。」

 

旧約聖書では、確かに地の産物の十分の一は主のものでわたしのために使いなさいと書いてありますが、レビ人に与えるのはそうして納められた奉納物の十分の一です。

 

この奉納物を献金としますと、その中からさらに十分の一はレビ人(主のために働く人に)に、後の十分の九は主のために、たとえば貧しい人とかイエスの教えを守るとか伝道のために使いなさいと言われていると思います。

 

新約聖書でも、イエスは献金を否定されていないと思いますが強制もされていません。献金は必要なことだと認めておられると思います。

 

それは、教会は宣教活動を目的とする組織でありそのためには費用がかかります。そして、教職者を通して信徒がみ言葉を養う場であり、愛し合う場でもあります。それらの活動を支えるための聖職者の生活を支える必要があることもわかります。

 

しかし、教会運営を維持するためといいましても、教会建物を持たない教会があれば立派なあるいは質素な教会堂を持つ教会までいろいろあるのも事実です。その教会が、どこに力を入れるかという問題かもしれません。

 

ただ言えることは、けっしてお金では無理をせず、お金の余りかからない方法で教会を運営するのがよいと思います。この世は仮の住まいです。立派な会堂をたてても天国へ持っていけないのですからね。

 

立派な教会堂をたてて神を拝するのは2000年前に終わりました。

 

それでは幾ら献金すれば良いのかと問われそうですが、献金をできる人は十分の一にこだわらず(それより多くても少なくても)信仰によりされればよいと思うのです。

 

金額にはこだわらずに、額は生活状態に応じて、出来る範囲で信仰によりされればよいとおもうのです。

 

わたしは、本当の捧げものと言うのは、お金よりもむしろ自分の人生を自分が戴いた賜物を精一杯用いて自分を奉げることだと思うのです。

 

そう、神様が命令されているように神と人(隣人)を自分のように愛するためにです。

 

お金の多少に囚われることは、人間を罪に陥れようとするサタンの思うつぼです。

 

信仰によりと書きますと、多くすれば良いことのように思われますが、決してそうではないと思います。

 

献金(ささげるお金)の多少を競うようなことは、イエスの教えにも反していると思います。

 

なぜなら、行いにより信仰を量ることになるからです。献金は感謝と喜びのうちにささげるものと思います。

 

そうすると、金額もおのずから決まってくると思うのです。

 

わたしは、イエスの言葉の趣旨からみると、貧しい人々とか社会から疎外された人、隣人を愛するために使うのが天に宝を積むことになると言っておられると思うのです。

 

それらの活動が宣教に通じるならばそのための費用は重要な使い道だと思います。

 

教会は隣人愛の実践として、教会の中では信徒同士の助け合い、教会外に対しては、貧しい人々への奉仕活動(お金にこだわらずに)をもっと積極的にすべきかと思うのです。

 

数は少ないですが、そういう教会もあると聞いています。

 

マザーテレサはこのことを身を持って実践された方だと思います。マザーテレサは献身者です。本来献身者はマザーのようであるべきだと思います。信仰が、伝道がお金もうけの手段であってはいけないと思います。

 

現実にはマザーのような生き方は難しいかと思います。誰でもができないから、歴史に残り、多くの人の尊敬の対象になるのでしょう。

 

でも、アメリカでは、信仰に燃えて単身アフリカで奉仕活動をされているクリスチャンもおられると聞きます。

 

もちろん、無報酬ですよ。その人たちこそご自分の人生を神にささげておられると言えるのではないでしょうか。

 

日本においても東京・山谷で死を迎える人のために活動されているキリスト者の方もられます。もう、118人もみとられたそうです。凄いですね。

 

その方は、「やがて山谷を聖地にすること、それが僕のミッションだと思っています。」と言われています。

 

次のような、天国に行ける人の喩え話があります。

 

マタイの福音書第25章40節「お前たちは、わたしが飢えているときに食べさせ、のどが渇いていたといきに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、」

 

36節「裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」

 

40節「はっきりいっておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

 

もちろん、この小さい者と言うのは、心の貧しい人のことで、頼るべきなにものも持たない貧しい人々のことだと思います。もちろん、財産や地位があっても心の貧しい人はおられます。

 

どちらにしても、旧約聖書では「こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のものである。それは主の聖なるものである。」と書かれてあるので、

 

キリストを信じる者は、恵みにより得た収入の十分の一は社会に、つまり、教会献金も必要ですが、貧しい人々(隣人を愛するために)にも還元しなさいと言われているのだと思います。

 

お金がなければ隣人を自分のように愛する愛(行い)をもって愛しなさいと言っておられると思うのです。

 

なにもお金を出すのが隣人を愛する唯一の方法ではありません。

 

献金と隣人愛(人間関係)とのどちらを優先すべきかは、イエスは次のように言われています。

 

マタイによる福音書第 5章 24節「その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」

 

この供え物は献金のことを指すと思いますので、このイエスの言葉は、明らかに神への供え物より人間関係を重視することを求めています。

 

なお、教会では献金を進めるときは旧約聖書をよく引用されますが、旧約聖書の時代は宗教と政治が一体でした。だから旧約の時代の献金は今で言う所得税に当たると思うのです。

 

たとえば、サムエル記15節以降をよく読んでみますと、十分の一というのは、王をたてて軍隊を持ったり、軍備を整えたりすればそれだけの金がいると書いてあるのです。つまり、国家を維持する費用も含めて十分の一なのです。

 

神殿を維持する費用以外にそれらの費用も含まれていると言うことです。

 

もちろん、大勢の祭祀職の人を養うことにも、貧しい人たちのためにも使われたと思います。

 

これを現在のクリスチャンに置き換えると、十分の一の献金を納めるならば、国家に税金を納めてさらに教会に十分の一の献金を納めていることになります。

 

現在は一部のヨーロッパの国をのぞいて政教分離です。もちろん、日本でも政教分離です。現在と旧約聖書の時代と同じように考えるのはおかしいと思うのです。

 

どちらにしても、そのようなことでせっかく教会に救いを求めてきた人を躓かせたくないものです。それは決して御心ではないと思います。

 

わたしは、教会が心の貧しい人の集まりならば、教会は質素であるべきだと思います。また、お金に振り回されるようなことがあってはならないと思います。

 

イエスがご自分の生涯を「イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 (マタイの福音書8章20節)と言われています。

 

教会は、キリストを知らない人のために開かれた、世の光となるような存在であるべきだと思います。

 

心の貧しい人々の集まりの中にキリストの光はより輝きを増し、その光りを求めて、人々が心の安らぎを求めて集まると思うのです。

 

なお、アメリカでは、世の中の恵まれない方に対する支援のために競って献金をささげていると聞きます。

 

<ここからは後日追加した分です。>

 

献金についてちょっと最近気になる聖句があって調べてみましたので、書いておきます。教会で献金を勧めるときによく取り上げられる聖句です。

 

聖句はマルコの福音書12章42節から44節「やもめの献金」の個所です。

 

42節.ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。

 

43節.イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。

 

44節.皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 

38節.イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、

 

39節.会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、

 

40節.また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

 

「やもめ」とは、夫を失った女のことです。当時のイスラエルは男権社会です。女は夫を失うと帰るべきところがなく、男の子がいない場合はやもめの社会的地位は非常に低い物でした。貧しい階級の代表的な存在です。

 

この個所の貧しいやもめの行為をイエスは高く評価しているから、貧しくとも献金はすべきものと捉えることができます。

 

しかし、よく考えると、この物語の場所は神殿の境内であること。つまり、ユダヤ教指導者の目が光っている場所だと言うことです。

 

そこで、この貧しいやもめは生活費を全部献金しているのです。

 

これからの生活をどうするのでしょうか。この時代、生活保護制度などないでしょうから、貧しいやもめは、物乞いするか、死ぬしかないのではないでしょうか。

 

もしかしたらこのやもめは、生きていくすべを失い死のうとしていたのかもしれません。

 

ですからこの貧しいやもめの献金は、自ら進んで献金をしたのではないと捉えるべきだと思うのです。

 

神殿制度がやもめにこのような行為を強制していたのだと思うのです。それは40節の聖句「・・やもめの家を食い物にし」からも推測できます。

 

こうしてこの個所を読むと、イエスの43節と44節の言葉は、貧しい人々の献金をもって(搾取して)贅沢な生活をしている律法学者ら宗教指導者に対する当てつけのように読めます。

 

40節によると、その様な人は「・・人一倍厳しい裁きを受けることになる。」のです。

 

従って、イエスは決して貧しい人の生活をも破壊するような献金を褒められたのではないと思うのです。

 

現在でも集金宗教といわれている宗教団体があるそうですので、そういうところは気をつけなければ大変です。

 

いろいろと書きましたが、最後に教会の献金袋でちょっと気になることを一言。

 

什一献金は律法の規定によるものです。宗教専制国家である古代のイスラエルの人が守るべきものです。

 

律法は、イエスの新しい契約により廃止されたはずです。

 

であれば、教会の献金袋に什一献金と書くのはおかしいと思うのです。

 

ただの献金袋でよいのではないでしょうか。

 

以上、疑問に思ったことを調べていろいろと書きましたが、間違っていればすみません。先に誤っておきます。

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おじさんの聖書」カテゴリの記事

コメント

2021/05/02
はじめまして。突然のコメント失礼します。
この記事、そしてコメント欄を読んで什一献金の実際を初めて知り驚きました。普段は都内のプロテスタント教会に通っているクリスチャンですが、現在も通う母教会で受洗した時、献金についておじさんと同じようなことを言われました。また、今まで何人も牧師や伝道師の先生とお話ししましたが、献金はその多寡は問題にならない、むしろ什一献金を強制、推奨する教会には気をつけた方がいいとまで言われました。もちろん少しずつ自由に使えるお金が増えていく中で献金も少しずつ増やしていますが、その個人の献金額について教会で公または問題にされたことは過去一度もありません。都内のハード面に恵まれた教会ならではかもしれませんが、収支報告書もかなりちゃんとしたものが年度ごとに教会員に渡され、献金が教会運営や神学生の生活の助けになっていることを確認しています。(当然と言えば当然ですが)
長くなりました…皆様も聖書にきちんと信仰の基盤を置いた、正しい教会に導かれますように。

イザヤ61:1 貧しい人に良い知らせを伝えるため・・・
重荷を負って苦労している者にさらに重い荷を負わせ、貧しい人に良い知らせを伝えないのが、今の教会なら、私たちは、いったいどううれば、いいのでしょうか。

あるクリスチャンのおじいさんに、言われたのは、
神様はお金を欲しがらない、欲しがるのは教会だよと言われたことがあります。教会に通うと、洗礼を行けるように言われ。その時、収入は神様から頂いているので、10分の1は寄付するように言われました。
その時点で少しなにか不信感を持ったのですが、
その後、一週間おきの特別献金、日曜の礼拝時に
席上の捧げ物、という具合に、取られました。
私はその時点で、何かおかしいと思い、献金を一切しなかったら、一人の老婆が、私に向かって
狼の威嚇のような、顔をするようになりました。
どう見ても神様から出ている行動ではなく、悪魔
そのものに見えました。あまりにひどいので、
牧師に言うと、あの人は反省して、神様にお詫びをしたから言い、と言われ私本人になにもないとは、どういうことだろうと思い。納得がいかず、
そのまま教会を離れました。今にして思えば、
教会は、献金の多寡によって、信者を差別していたのかもしれません。その時教会というのは何か、やっていることが、嘘っぽく、欺瞞と偽善で成り立っているのがキリスト教という結論になりました。日本では、1%未満でしかないキリスト教人口
決して増えることはないでしょうね。

韓国人夫婦の教会に行ってしたが、とにかく献金献金でした。
『献金すれば祝福される』そればっかりでした。
献金すれば、たくさん祈れば、断食すれば、奉仕すれば・・・自分は献金も祈りも断食も否定はしませんが、ここまで行いを強調されると、神様と取引してるみたいに思ってました。
収支報告なんてありません。
大きな額の献金をした方がいれば、みんなの前でその金額を発表するんです。びっくりしました。
その額を聞いた時は、内心「やっぱり金かよ」と思ってしまいしました。
神様は私たちの心を見ているのであって、金額の大きさを見ているのではないですよね?

確かに牧師夫婦は贅沢をしていた訳ではなかったのですが、今にして思えば、立派な会堂(立地条件が良く、集まる人数に対して大きい建物)でした。教会の専属のスタッフ(世に出て働いていない人たち)も何人もいました。
自分たちの身の丈に合ってる牧会だったのかな、と思います。
我が家は自営業で、当たり前ですがきちんと正直に確定申告を行っているので、税金などたくさん支払ってます。十分の一献金、週に2回の礼拝の席上献金、その他の様々な献金は正直言って負担でした。貯金も全然できませんでした。
クリスチャンって貯金が出来ないんですか?
結局、捧げる喜びもなくなってきたので、思い切ってそこの教会は離れました。

しばらく、どこの教会にも所属していない状態なので(とりあえず近所の教会の礼拝に行って、席上献金だけ納めていますが)十分の一は今はしていません。
救われた時の喜びを忘れず、いつも喜んで祈って、献金して、奉仕したいです。
今は主の御前に正しい真理を求める群れに出会えるように祈る毎日です。

長々と失礼しました。

自分も同じように傷付いて何と一人にさせられました。
一人と言うのは、実質一人です。抽象的ですが、お前には信仰があるんだろ?ならイエス様に助けて貰いなさい。みたいな事を同じクリスチャン仲間にされました。
まだ、教会に来るな、と言われた方がマシです。
ある時、籍は入れて無い未信者の長年付き合っていたパートナーの事で教会に相談をしたのですが、男である自分のケジメの事を言われ、自分としてはクリスチャンホームにしたかっただけなのに、それが出来ないと言うだけで、教会から除け者にされました。完全に霊では無く、極一部の人達の肉の考えによる裁きです。十一献金をしていない。と呟く人と同じですね。
人には事情や都合もあるのですから、それを顧みないのは、本当の神の愛と言えるのでしょうか。
世の終わりには、霊と誠とを持って父を礼拝する時が来る。と書いてあるのに、霊では無く、肉で礼拝をするような見えない裁きの礼拝にはなっていないでしょうか。
それは表向きであり、皆さまが悩んでおられる十一献金の事をも強調される教会で、それが出来ないと祝福が無いようなニュアンスを牧師が言う教会でした。
転席届けもうやむやにされて、酷い言葉を浴びせかけられ、他の教会の悪口を礼拝中に言うトンデモな教会です。
聖書の中に、内なる聖霊を悲しませてはいけない。この御言葉が虚しく心に響いています。
皆さん、大変でしたね。
提案なのですが、心と霊と霊(良心と知恵と心)の回復の為に本当は何処か、聖書の記述にもあるように、教会は建物では無く、信徒の心の中にあると思いますので、一つ所に集まり、思いと心を一つにして、お互いに傷付いた心と霊の身体の癒しの為に主イエス様にお祈りをし合いませんか。

2016.3.16.はじめまして。献金の事で納得できなくて、教会を休んでいます。記事を読ませていただき喜んでいます。信仰なのかお金なのか?さっぱりわからなかったのですが、今納得できました。教会は新興宗教とは違う所だと思って礼拝に参加していましたが新興宗教と同じでした。でもおじさんの日記に出会い、ほっとしました。ありがとうございました。

びっくり仰天(゚o゚;;
サタンの会堂と化した裁きの教会。

まったく、酷い金権体質の教会もあるんですね。
もちろん、このような教会ばかりではありません。
自分に合う教会をあせらずに探してみて下さい。

この2年間、献金のことで傷つき、今も悩み苦しめられています。通っていた教会は、10分の1献金の他に、連合会費年間費 3600円を義務づけられていました。夫が夜勤をしていましたので、普通に献金もできていましたが、病気で夜勤もできなくなり、入院もしたりして、今までの生活ができなくなりました。牧師にお願いをして、献金を免除して頂きましたが、名前は掲載されませんが、献金を捧げていない人の人数が掲載されますと、そこで『なんで、私たちはマジメに献金をしているのに、献金をしない人がいるのか』と言われるようになり、教会が裁きの場になっているんです。夫も心配をして、バザー等で、私が作ったビーズ細工を教会に持って行って、少しでも教会のお金の足しにしたら?っていうことで、ビーズを作成しました。キリスト教徒でもない、主人が協力して、作ってくれたんです。そしたら、ビーズを購入するお金があるのなら、献金して下さいって言われて・・。ビーズは実家から送られたものなんです。そういう風に言われると、どうしていいのか、分かりませんでした。仕方がないので、自分の持ち物を全て売り払って、献金をしましたが、どうしても、連合会費までは、届かなくて、やっぱり献金されていない人数に掲載されました。
プロテスタントの教会ですが、どこもこんな感じなんですか?

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