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2010年4月10日 (土)

最後の審判(2)

いよいよこの宇宙が消滅する最終局面です、千年が過ぎると、底知れぬところに閉じ込めたサタンが解放されます(黙示録20章7節)。サタンの命令系統が復活して悪霊軍団が再び活躍を始めます。

この悪霊の解放は、人類に患難をもたらしますから、地上の人に対する最後の試みとなります。
それは、その時に地上に生きている人たちが救われ裁きから逃れるために最後のチャンスがあたえられた、ということだと思います。


サタンらは、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲みます(黙示録20章9節)。そして、天から火がふってきて彼らを焼き尽くします(黙示録20章9節)。

この後、彼らを惑わしたサタンは、火と硫黄の池に投げ込まれ、いわゆる地獄へ投げ込まれます。獣と偽預言者もそこにいます(黙示録20章10節)。

獣と偽預言者は既に、千年王国が始まる前に生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれています(黙示録19章20節)。

なお、獣とは、自分が本当のキリストだと称する者。偽預言者は、その偽キリストをこの人こそ真の救い主であるという啓示を受けたと証言する者のことを言うということです。

いよい最後の裁きが始まります。その前に、この宇宙も火で焼かれて消滅します。このことは(黙示録20章11節)に、「天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった」と書かれています。

おそらく、この宇宙が消滅するのは、最後の審判の準備と捉えます。これまでの出来事で、イエスを信じる者とサタンにつく者とにはっきり分かれてしまいます。

なにしろ、未信者は、これでもかこれでもかと何度も艱難に合っているのですから、もう白黒、イエスを信じるか信じないかがはっきりしています。

だから、サタン達も、サタン達の巣であるこの宇宙も、不要となったので消滅させることになるのだと思います。

ここのところを、ペトロ第二の手紙第3章7節に、「しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、・・不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです」と書いてあるのです。

宇宙が消滅したために、地上で生活していた人は、肉体が焼かれ霊だけになっています。それまでに死んだ人々の霊の内で、イエスの空中再臨のときに復活した人以外の霊は、まだ霊のままですが、この全員が、復活の身体(どのような身体かは聖書には記載はないと思います)を着てよみがえって裁きの場に出されます。

イエスが空中に再臨されたときに携挙された人々は、既に天国行きという裁きが済んでいますので裁かれません。

天国に行く者と火の海に行く者との仕分けをする裁き。この裁きがなされる方式は、「私(イエス)の言葉を聞いて、私(イエス)をつかわされた方(創造主)を信じる者(すなわち創造主を知ること)は、永遠の命が与えられる」と宣言します。つまり裁きを免除されるのです。

「裁きをのがれる者たち」(黙示録20章6節)があります。裁きを受けない人は、まず、再臨のときに復活した人です。これを「第一の復活」といます(黙示録20章4節)、「これらの人は第二の死は何の意味もない」(黙示録20章6節)と書かれています。

第二の死とは、黙示録20章14節の最後の審判で「火に投げ込まれる」ことです。この「第一の死」は我々が通常考えている肉体の死のことだと思います。

その次は悪魔です。彼らは、既に宇宙が消滅するとともに火の池に投げ込まれている(黙示録9-10節)から裁きはない。裁きが終っているからです。

その次の人たちは、獣と偽預言者です。大艱難の終わりの時に、千年王国が始まる前に既に生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれています(黙示録19章20節)から裁きはない。悪魔と同様裁きが終っているからです。

次ぎの人たちは、イエスの教えを真理と認めた人々です(ヨハネ3章18節)。彼らはこの時点に天国に直行です。死んですぐにではない。

最後の人々は、地上で生前のイエスに直接福音を語られても信じなかった人ですが、その人たちは既にそのときに裁きが済んでいるので裁きがなく火の池に直行です。

「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。・・光が来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇のほうを好んだ。

それがもう裁きになっている。」(ヨハネによる福音書第3章18-19節)とあります。生前のイエスの言葉を拒否した人は、そのときにすでに裁かれているのですね。ここで光とは、イエスのことです。

イエスを信じた人以外の人間は、みな裁きの場にだされます。そして、その裁きの場は、「わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。

幾つかの書物が開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。

海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府(死者の中にある者がいく火のあるところ)も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。

死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である」。(黙示録20章12節から15節)。とあります。

イエスを信じた人以外は、行いに応じて裁かれるとなっていますが、どんな行ないをしたらどんな裁きを受けるか書いていません。裁きの量刑も分かりません。

つまり、それ以上のことは隠されているのです。わたしは、神は行いにより裁くためにはすでにその基準はわたしたちに示されていると思いますので、

それはイエスの言葉「隣人を自分のように愛しなさい」というイエスの黄金律と各人がもっている良心だと思うのですが・・・。

また、行いで裁くと言いましても、当然その行いは自分で自分のことに責任を取れる年齢になってからの行いと思いますので、

幼児や子供は悔い改めるチャンスも与えられないまま、裁く対象となる行いもなく、神の御心により命を取られるのですから、裁きの対象外となると思うのです。

だからわたしが思うに、裁きはその場になって裁かれるのではなくて、生前の生き様によって自分で自分を知らず知らずのうちに裁いていると思うのです。だからだれも不服は言えないと思うのです。

最後に、新しい天と新しい地が作られます。黙示録第21章1節にはこういう記載があります。

「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た.最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都・・神のもとから離れ、天から降ってくるのをみた。」。

3節「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものが過ぎ去ったからである」。

この新しい天地は永遠に続きます。この永遠も時間のない世界の永遠ですから、今のわたしたちの永遠に対する感覚とは随分違うと思います。

終わりの日、コリント信徒への手紙 第一 第15章24節から28節は、「次いで世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。

・・最後の敵として死が滅ぼされます」。そして、御子自身もすべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。」。イエスも神の許へ帰られるのです。

ヨハネによる黙示録第22章13節「わたしはアルファーであり、オメガである。最初の者にして最後の者。初めであり、終わりである。」が実現するのです。このわたしというのは、もちろん、イエス・キリストです。

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