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2010年3月17日 (水)

聖書を読み人生を読む

悪魔(サタン、悪に誘う力)はいると思いますか。わたしはいると思っています。もちろん会ったことはありませんが、推測です。

創造主である神様がいて次の世があって、天使がいるなら当然悪魔もいます。悪霊もいると思います。悪霊には人間の迷える霊とサタンの配下の天使の場合があると思います。

次の世があるなら人間もいろいろですから当然いてもおかしくはありません。神様も悪魔も天使も悪霊もすべて霊的存在です。だからわたしたちの目には見えない存在です。


わたしたち人間の背後にはこのような霊的存在の力が働いていると思うのです。聖書はそのようなことが実在することを前提として語られています。

なお、念のためですが、神様が悪魔らを造ったのではありません。神様は悪を造れません。彼らの前身は天使です。

天使の長が、「自分も神の名のように、賛美される立場になりたい。」と思うようになり、部下の天使に命じて自分の王国を造ろうとする。

そうすると神様から離れるので、神様の恵みを受けられなくなり変質してサタンになるのです。サタンになった天使の長は天使の内3分の1を配下に置き(旧約聖書イザヤ書14章12-15)、

この天使が「天の諸々の悪霊」に変質します。この聖句で、曙の子、明けの明星とは、前身が天使であるサタンのことを言うのだと思います。

この見える世界の背後で働く見えない世界の勢力の説明はこのくらいにしておいて、聖書では、イエスとユダヤの権力との関係を「神と悪魔」の関係において捉えています。

これは、客観的、歴史的出来事ではありませんから、学問的に実証できません。ところが、聖書を読んでみると、イエスのものの見方、あるいは語り方 には、明らかにイエスとユダヤの権力との関係を神様と悪魔の関係に類比させて語られています。

聖句で言いますと、マタイによる福音書第4章10節。同16章23節。ヨハネによる福音書第13章27節他多数あります。

明らかに聖書は、わたしたちの目に客観的に目に見える事実だけではなく、その事実の背景には、目に見えない悪魔らの働きがあることを示そうとしていると思います。

神様は霊的な存在ですから、聖書の言葉を読むというのは、そのみ言葉の背後に目に見えない霊的な意味・意義を読み取ることだと思うのです。

聖書の言葉の背後にある、目に見えない霊的な意味・意義を読み取るには書かれた文字を追っているだけでは不十分で、神様から来る聖霊(神の霊だから聖霊)の働きが必要だと思います。

霊的存在を読み取るには霊の目で読む必要があると思うのです。霊的な目は、イエスのみ言葉を信じる信仰によって養われると思うのです。

これによって初めて、わたしたちは聖書を神の言葉として読むことができると言えるのではないでしょうか。

ただし、外側から客観的に確認できる歴史的な状況を正しくとらえることも、背景にある霊的な意味を正しく読み取るために必要だと思います。

イスラエル民族は、歴史的な出来事の中に神を見いだし、信仰を深めていったと思うのです。言い伝えとか神話が多く聖書に取り入れられているのはそのことを説明する手段だと思います。

だから、信仰は、歴史的な出来事をどのようにとらえるかということから生まれると思うのです。

それは、歴史的な出来事を客観的に解釈して、背後の霊的な力は、み言葉に、祈りに働かれる神の霊、聖霊の働きに委ねて解釈するということだと思います。

聖書にある出来事は、未完であり今もわたしたちの歴史として現在進行形で続いていると思うのです。そういう意味で、今も聖書の時代、つまり使徒言行録の時代が今も続いていると思うのです。

言い伝えとか神話と呼ばれるものでも、それが生まれるためには、そこには必ずなんらかの人間の体験なり出来事が背景にあると思うのです。

福音書が伝えるイエスの行なわれた奇跡物語もおなじで、それがどんなに荒唐無稽であっても、そこには、聖書で語られたこととそっくりではなくても、イエスが実際に行なわれたなんらかの行為とか出来事が基になっていると思うのです。

つまり、聖書には、実際に起こった出来事が解釈されて書かれていると思うのです。新約聖書は旧約聖書を素材としています。

忠臣蔵が、テレビで見るような形で起こったかというとそれは疑問で、やはり実際に起こったことが解釈されてドラマになったとい思うのです。

これと同じです。もちろん、そのドラマに用いている素材は忠臣蔵とは大いに違いますがね。

したがって、わたしたちは、それらの奇跡がそっくりそのまま起こったかということを議論するのではなく、それらの奇跡の中にイエスが語ろうとされている神の国の姿を見ようとするのが大切かと思うのです。

神の国はイエスの中にすでに到来していたのですから、イエスはきっとそれをどのようにわたしたちに表現するか苦心されたと思います。

人々はイエスを「神の子」だと言い、また敵対する人たちは、「おまえは自分を神と等しくしている」と言ってイエスを非難しました。外側から見る限り、イエスの振舞いは、そのようにしか見えなかったのでしょう。

しかし、これはいたしかたないことで、そのときは、神の霊、聖霊はイエスに降ってはいるが、弟子たちにはまだ降っていないので、真理を見る目が開かれていないので、イエスの真実の姿を知る由もないと思うのです。

それでは、なぜ、イエスは、聞く者が理解するか否かにかかわらず、神の国のことを、神の支配の到来を言葉で伝えようとされたのかは、

それはイエスがこの地上からいなくなった後、聖霊が弟子たちに降り、イエスの生前の言行の真理をことごとく解き明かして下さるのに備えられたと思うのです。

もちろん、奇跡とかしるしによって信じなさいともいわれています。奇跡とかしるしが起こるのは神の力なのだから、その神の力を行使できるわたしの言葉を信じなさいと言うことでしょう。

イエスが天に昇られた後、聖霊降臨(使徒言行録第2章1節以降)を体験した弟子たちは、きっと生前のイエスの言葉を思い出し、

その言葉の本当の意味を知り一つ一つかみしめていたと思います。その聖霊は、今もイエスを信じる者に内住し、働き続けておられます。

イエスを信じる者の背後には、そのような聖霊の働きがあるということは、信徒の集まりであるキリスト教会の歴史の背後にも聖霊の働きがあるということになります。

わたしは、この宇宙を、この歴史を、そしてこのわたしの周りで起こっている出来事が、神様の支配のもとで起こっていると分かったとき、自分に起こる現実の出来事を自分以外の無数の周りの出来事と結びつけて見るようになりました。

そして、今起こっている出来事を、聖書にそっくりの形で書かれていなくても、現実の出来事に似た聖書の言葉を比較して読むという作業をしました。

同時に、背景で働く目に見えない霊的な力の存在を考え、その出来事に霊的な意味を読み取ろうとしました。そして、自分の内心の意思に問いかけて、目の前の問題にひらめきや霊感とか知恵を求めました。

クリスチャンはいつもそのような目で、祈りの姿勢で目の前の出来事の答えを求めています。聖書の内容と、一見今自分が直面している問題とは全く無関係に思われることであってもはっときがつくこと、教えられることが多いのです。

このように歴史に、あるいはわたしの身に起こる出来事というものは、外に現れる目に見える出来事と同時に、その背景には、出来事を成り立たせている神様の働きがあると思うのです。

そのようにして、物事を見るとその出来事の中に意義が見えると思うのです。未熟なわたしですが、物事をそういう目で見ることができるように日々訓練に励んでいます。

ナザレのイエスの出来事は神様からの啓示の出来事です。啓示というのは、辞書では。神様が人間に顕れて、「人の心を開いて真理を示すこと」とありますが、このように、主導権は神様にあるわけです。

そして、あらわれ方は、夢とか幻とか知恵とか悟りの形で、求める個人に示されると思います。

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