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2010年3月24日 (水)

地獄について

教会により、永遠の地獄を強く主張し、実際に、時間的に永遠に火にあぶられるとさえ主張するところもあります。

脅かしてイエスを信じるように導くと言うのは、わたくしにはちょっと抵抗があるのですが、なんだか脅かされているような気がします。

現世でキリストを信じなくて死ねば全員地獄へ行くと言われる方もおられますが、聖書にはキリストを信じないで死んだ人は行いにより裁くとなっていますのでそれはないと思います。

キリストを信じなくて死ねば地獄なら、その人が死んだ時点で裁きは決まっていますから、最後の審判での裁きの必要はありません。

わたしはそれよりも、地獄というところは、何度試みに合わされても悔改めない、根っから邪悪な人間が集まるところと解釈したいと思います。

次ぎの世で行くところは、この世での生き様によってつくられたその人の性質にあった場所に行くと思うのです。

また、地獄だって場所が一箇所だけとは限らないと思います。

これはあくまでわたしの独断と偏見ですが、この世での生き方が重要だと思うのです。

聖書では、天国はどこかとの説明は、イエスによってなされていますが、地獄についてはいったいどんな所なのか、状況は喩えだけで、詳しいことは説明されていないと思います。

マルコの福音書第9章44節には、「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」と書いてありますが、この表現も喩えだと思います。

何となく恐いところのような気がしますが、正確なところは分かりません。

神は愛の神だと言います。

その神が人を地獄に送るのです。

その愛の神は、人間を地獄に送る神の姿と矛盾しないのでしょうか。

天地創造の最初、神が自分の形に似せて人間を創造しました。

人間は、神と共に仲良く暮らしていました。

人間は朝起きてすぐに神のことを考えます。

彼らは神のことを心から愛していました。

神が彼らに望むことを実践するのが、彼らの喜びの全てでした。

こうして彼らは、神と正しく交わっていました。

神の保護の元に神に導かれて人生を歩んでいたのです。

しかしある日、人間はサタンをあらわすヘビにそそのかされて、神に反抗しました。

そして、神から離反するという罪がこの世に入り込みました。

人間はもう神に頼らずに自分で善悪を判断して、自己中心で生きていこうとしたのです。

人間は神からどんどん遠ざかっていきました。

「自分が世界の中心だ」という彼らの考えは、現代のわたしたちの考えでもあります。

争い、強姦、敵意、羨望、嫉妬、プライド、劣等感など、いわゆる社会悪は、わたしたちが神と正しく交わっていないという事実にその原因があります。

その結果、傷つくのは人間です。

今の人類の悲惨な状況を見ればそれは明らかです。

人間を自己に似せて造った創造主である神から見れば、之は非常に残念なことだと思います。

なぜなら、自分の子供が自分に反抗して、自分の聖なる性質からかけ離れた生活をしているのですから。

このことに関して人間を創造した神は、創造者として何をすべきでしょうか。もしもなにもしないといったら、神は、聖とはいえないし、愛の神ともいえないし、善の神とも正義の神ともいえません。

それは人間の親でも同じです。

悪ガキを放置するほど親として無責任なことはありません。

造っておいて、後は野となれ山となれの神ではないと思います。

そうであれば、何のために人間を、宇宙を造ったのでしょうか。

目的のない創造なんてあるのでしょうか。

造られた人間が目的のない創造をしないのと同じように、その人間を造った神も目的のない創造はされないと思うのです。

神が社会悪に対して、そして、罪に対して、正義を、道徳的分別を持つ神であるならば、その形に似せて造られた人間が、神の心も知らずにいたとしても、神は創造者として道徳的分別を持つはずです。

地獄は「すごくいい人なのだけど、正しいことを信じなかった」人々が送り込まれる場所でしょうか。

分かりませんが、C・Sルイスはそうではないと言っておられます。

ヨハネの手紙第一第4章7節にこのような聖句があります。

「愛する者たちよ、互いに愛し合おうではないか。愛は神から出る。愛する者は皆、神から生まれ、神を知っている」。

この聖句から導き出されるのは、愛のあるところには神がおられるということです。

人を愛することができるのは、自分が愛されていることを、無意識にでも分かっている人だと思うのです。

そうであれば、たまたまキリストを信じるという正しいことを現世で信じなかったというだけで、神はそういう人を地獄に送るでしょうか。

この世には、キリストを信じてなくても、キリストの教える行いを実践している人は沢山います。

また、キリストを知らなくて死んだ人は、行いで裁くと言いましても、当然その行いは自分で自分のことに責任を取れる年齢になってからの行いと思いますので、幼児や子供は悔い改めるチャンスも与えられないで、裁く対象となる行いもなく、神の御心により命を取られるのですから、地獄へ行くどころか裁きの対象外となると思うのです。

地獄に送られる条件の一番は、その創造者である神を無視してこの世の世界の中心にいたがる人だと思うのです。

すでに罪を告白した人々が地獄にいくということはないと思うのです。

地獄とは、永遠に世界の中心にいたがり、神を否定する、という抵抗を最後まで止めない人々が集まるところだと思うのです。

何度も神の試みに会いながら神に対する抵抗を止めない人です。

言い換えれば、神の命の恵みをうけとることをあくまで拒否する人だと思います。

現実にはたしてそういう人間はいるでしょうか。

本当は地獄なんてなければと思うのですが、地獄があるのは事実だと思います。なぜなら、もし地獄がなければ、神に背き不法が満ちるこの世界を前に、神はどうしたらいいのでしょうか。

人間の罪を気に留めないとしたら、その神は正義の神ではありません。

そんな神は道徳をも持たない神だと思います。

このような創造の目的に反する明らかな反逆を前に、その人物を地獄に送るという裁きを行わなければ、正義を行う必要もなくなります。

正義にいい加減な神ならば、神そのものの存在の必要性も危うくなります。

また、聖書は罪の度合いは一様ではないといっているように思います。

地獄に行った人がすべて同じような苦しみに合うかどうかは疑問です。

天国から地獄の最悪の環境まで段階が色々とあると思うのです。

自己中心的な罪人が他の人間を傷つけるのを防ごうとしたら、彼らを閉じ込める場所は地獄以外にありません。

つまり地獄へ行くのは自業自得だということです。

そのような人は、地獄に行ってもまだ自分の罪を認めたがらずに、そこにとどまることを望んでいる、そうですね、そこにいることがその人にとって最も居心地がよいということです。

そう言う意味では、自分が自分を裁いていることになります。

だから誰も文句が言えない。

つまり、最後の審判までには、何度も試みに合い、何度も悔改める機会が与えられると思いますので、それでも、なお、神に反抗する人が地獄に行くと思うのです。

だから、最後の審判では、この世の中で「神から不当な扱いを受けた」といえる人物は誰もいない。

人々は、神の裁きに正義を見るのです。

誰も文句を言えない立場において裁かれるのです。

そうですね、現世において自分で自分を知らぬ間に裁いていると言えますから、誰も文句は言えないのだと思います。

この世の中では、常に正義が為されるとはいえません。

わたしたちは、毎日不正がはびこる様子を目のあたりにしています。

しかし、最後の日には、すべての人間に正義が為されるのです。

そして、わたしたち全員にその正義が明らかにされますから、「これは不公平だ」と文句のいえる人間は誰もいなくなるのです。

最後に、神が人間を裁かれるのは、人間を憎くて裁かれるのではなく、愛するがゆえに裁かれるのです。

人間の親と同じで主な目的は教育、矯正が目的だと思います。

わたしはそういう意味で、地獄の、それも最悪の場所へ送られる人は非常に限定されると思うのです。

そして、地獄とは、天国が神の愛と命の恵みにあふれたところならば、地獄とは天国と最も遠いところで、神の恵みがゼロではないところと言えないでしょうか。

地獄も神が作られた空間ですからそこにも神はおられると思います。

ですから、地獄にも神の恵みはあるのではないでしょうか。

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