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2010年3月14日 (日)

運命について

運命という文字を辞書で引くと、人の意思によらずに幸いや不幸を与える力、あるいはめぐりあわせとあります。

人間は、生まれてくるとき、その時代のその環境を、つまり、自分が人生を送るであろう両親を含めた家庭環境、居住する町、民族、国家、文化、社会制度さらに持って生まれた性格、男女の別、背の高さなど身体的特徴、体の健康・不健康とか身体的能力、知能などは選べません。

こうして考えると、生まれた時から歩む道はほとんど決まっているようなものです。そうしてその人の意思によらずに決められたことを運命というならば、運命は、命が神から与えられるものならば、神の手によって決められたことといえます。

人生の節々における選択、つまり、進学、就職、結婚、退職、リタイア後の生き方なども自分の意思で選択する余地はありますが、それまでの生き方がその人の選択を決めるところもあり、選択の余地も若い時ほど多く、年をとるに従って狭まっていくと言えます。

しかし、幸せか幸せでないかというのは、その人の捉え方という面もあり、また、善いことをするか悪いことをするか、人のためにするか自分のためにするかというようなことは、

もし、それが自分の意思だけで事足りるものならば選択ができるように思いますが、それでも、性格が大いに影響すると思います。

性格は運命といわれる人もいますが、わたしは、性格は、遺伝的な面(先天的な特性、個性)と、育った環境とか教育、生き様(後天的、人格、

つまりその人らしい行動とか振舞い方)により形成されると思っております。その中で特に大きな影響を及ぼすのは教育かと思います。

如何にすぐれた素質を持って生まれてきてもその能力を引き出すことのできる環境がなければ宝の持ち腐れとなります。

逃れられない運命の力に押しつぶされて犯罪を起こすこともあります。反対に運命の力に耐えて、一かどの人物に成長する人もいます。

人間が生まれて、育ち、生き、そして死ぬところに、自分にも人にも理由のわからない、どうすることもできない一人ひとりの違った運命があると思います。

さて、悪いことがあれば何事も運命だからどうしょうもないと決めてしまえばそれまでですが、はたして神様はそれで良しとされているのでしょうか。

せっかく自由意志を与えられているのに活用できないのなら意味がありません。

一つ言えることは、与えられた環境で一生懸命に生きることだと思います。自分の努力ではどうしょうもない、もって生まれた運命は、人間の価値を決める基準とはならないと思います。

それでは、運命を変えることはできるのでしょうか。わたしはできると思います。

他人の恵まれた運命を羨んで、不平を言いながら人生の早い時期に自分の人生をあきらめる人もいれば、恵まれない運命に引きずられながらも、もくもくと前を見ながら人生を歩いている人もいます。

あきらめの人生が最善とは決して思いません。与えられた運命の中でいかに生きるかが問題だと思うのです。神様は、与えられた環境をいかに用いて生きるかを見ておられると思うのです。聖書にこのような喩え話があります。

マタイによる福音書第25章14節以降のタラントンの喩え話がそのことを語っていると思うのです。主人が旅行に出かけるに際し、三人の僕にそれぞれ5タラント、2タラント、1タラントを預けました。

主人が旅行から帰ってくると、5タラントン預けた僕はそれを運用して10タラントンにしました。

2タラントン預けた僕は、それを運用して4タラントンにしました。が1タラントン預けた僕はそのお金を土の中に埋めておいて全く運用しませんでした。

運用して預かったお金を倍にした二人の僕に対し主人は、「忠実な僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。

主人と一緒に喜んでくれ。」といわれた。これに対し、土の中に隠しておいた僕に対し、主人は、「怠け者の悪い僕だ。

・・そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ」と言って、「誰でも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる。」と勤勉を褒め、怠惰を戒めています。

最後に主人は、怠惰な1タラントンを預けた僕に、「この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするであろう。」。

この喩え話は、タラントンというお金のたとえで語っていますが、これを生まれつき与えられた能力、あるいはいま自分に与えられている自分が利用できるものに変えて考えればよいと思うのです。

つまり人生の出発点で既に持っているものが違う。

これは不公平ですが、その不公平に文句を言って怠けて与えられたものを腐らしておくより、持っているものを忠実に、

つまり誠実に活用するために工夫して努力して人生を歩むように求めていると思うのです。そうすれば、与えられた運命に、更に良きものを与えられる、といっておられます。

人の世の運命の内に生きながらも決して退かず、黙々と力の充実を図り、自分の運命を内側から変えていく人もいます。

運命に勝つには、焦っても駄目、無茶をしても駄目、また自分の力の及ばないことや道理にはずれていても駄目。

運命に勝とうと思うならば、決して無茶をしないで、自分の力の少し上を見て力を蓄えながら歩むのがよいかと思うのです。

人生には時たま運命を変えるチャンスに出会うことがあります。

しかし、そのチャンスを正しく選択し、自分のものにすることができるのは、日ごろの努力の積み重ねの結果ではないでしょうか。

ましてや、そのチャンスが神様からのものであれば、日ごろの努力に対する報いですからなおさらです。

もちろん、忠実な僕が更に与えられるタラントは、能力などだけでなく、人との出会いとか、人格(品性とか性格)、平和な家庭などのこともあると思います。

だから与えられるタラントは、財産とか学歴など狭い範囲にこだわらずに、広い視野で見る必要があると思うのです。己の欲を満足させて下さるのではないということです。

この喩えが言おうとしていることは、この世の富に忠実なもの、誠実な者は次の世の富にも忠実であると言っていると思います。この世で怠けものは次の世でも怠け者だということですか。

またイエスは、誠実に、勤勉に働くのは良いけれども、天に富を積みなさいと言っておられます。マタイによる福音書第6章19節から21節で、「あなたがたは地上に富を積んではならない。・・富は天に積みなさい。・・あなたの富のあるところに、あなたの心もあるからだ。」

この話は、この世の富である地位とか権力とか財産に心を奪われてはならないと言っておられるのです。そのようなものに心を奪われる生き方が問題だということでしょう。

天に富を積むとは、貧しい人、恵まれない人に施すこと、慈しむ心を持つそういう生き方をしなさい、そういう生き方が天に富を積む生き方だということでしょう。

運命に、与えられた環境に不平を言わず、まじめに誠実にこの世を生きる者は、必ず神様の祝福を得て、何かはわかりませんが更にわたしの為になるタラントを頂けると信じます。
37.聖書を読み人生を読む (聖書と人生)

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