歴史の背後に(3)
人間を罪の中から救い出し永遠の命を与えるために神は御子イエスを十字架に架け復活させたのならそこにはどのような意味があるのだろう。なぜそのような方法をとらねばならなかったのだろうか。
人間が何かを造るときは必ず目的があって造ります。創造主である神も人間を創造するに際しなにか目的をもって創造されたと想像するのはおかしくはないと思います。
サタン(悪に導く力と言う意味で)が閉じ込められたこの宇宙にエデンの園を造り自由意志を持った人間を置けば、ムクで無防備であった人間はサタンに誘惑されて罪を犯すのは当たり前です。
それでも神はそのようにされたのです。わかって神はそのようにされたとしか考えられません。
人間はエデンの園でサタンにそそのかされて、善悪の判断はわたしに委ねなさいという神の戒めを無視し、自分で善悪の判断をして神のようになりたいと思って神から離反しました。
それがために神との交流が途絶えた人間は、神から命の源、聖霊を得ることができなくなり、霊的に死ぬものとなりました。
また、創造主である神の創造の目的、神の導きから離れていた人間は、自分が何者でどこから来てどこへ行くかもわからずこのサタンが支配しているこの宇宙で生きている。
神から遠ざかった人間世界は、不法と不条理に満ち、真理は何かもわからないので、自分の力では回復不能な状態にある。
なぜなら、サタンが支配しているこの宇宙の中ではその状態が当たり前ですから、その中で生まれ育った人間には何が罪かも、何が真理かもわからないのは当たり前です。
自分は何者でどこから来てどこへ行くのかわからないのは当たり前です。
そのことを人間に知られないようにするためにサタンは妨害します。
なぜなら、もじ、人間が己の真実の姿を知ったら、サタンは自分の思惑を、つまり人間を自分の支配下に置き、自分を神のようにあがめる存在にしたいという目的を達成できなくなるからです。
サタンは、人間の心を惑わし、人間に真理が何かをわからないようにしているのです。自分が作られたものであるということもわからないように、人間を惑わしているのです。
神はこの世で人間に艱難を与え、忍耐することを教え、練達を教え、そこから希望を見出すことを教えようとされている。(ローマ人への手紙第5章4節)
これは訓練の何者でもない。だれかが言いました。この世は、人間の霊的訓練のためにあると。
そのようにしておいて、神は人間を罪の中から救い、自分が何者でどこから来てどこへ行くのかを教えようとされている。
そのためにイエスをこの世に送られた。
それも、神の一方的な力で一気に全人類を救うのではなく、イエスの十字架で人間の罪は購ったが、救いの恵みを受けるかどうかの選択は、個人個人の意思に委ねられた。
神を選ぶかサタンを選ぶかの選択はあくまで人間の自由意志に任せられた。
信仰をもっていない人がだれでもが思う疑問、神様が人間を創造したのなら、神様から離反することは罪だというのはわかるにしても、なぜ神様は人間の罪を贖うために自分の子供をこの世に送られて十字架にかけるようなことをされたのか。自分の愛する子供をですよ。
教会では、それだけ神様は人間を愛しておられるというのが一般的な答えです。他に方法はなかったのか。
聖書では、神様とイエスは親子関係です。イエスとイエスを信じている弟子とは兄弟です。わたしは、十字架は以下のことを整えるためになされた御業と考えます。
創造主である神から人間を見ると。よく考えれば、もし自分の罪を認めないのに一方的に許せばそれは単なる親バカです。
そこには子供への愛はありません。自分勝手な行動をしている子供を放任しているだけです。
それではろくな子供にならないし、親の意見も聞く耳を持たない子供が出来上がります。やはり罪を許すためには、
最低限、親と向き合い、親の言葉を聞こうと、理解しょうとする気持ちがなければ、親が何を言っても無駄だと思うのです。それではその子の成長は望めません。
神様は、人間がこちらを向くのを語りかけながら待ってはおられるのですが、それも気の長い話でその人が死ぬまで待っておられます。根気よく。侮辱されようがののしられようがまっておられます。
そうです、人にはそれぞれその時があるということです。神様を知るのにもっともふさわしい時があるということです。
神との和解の最初の第一歩は神様を認め、つまり自分は作られたもので創造主がおられることを認め、その創造主から離れていたこと、つまり、罪を認め、その罪を悔い改めて、イエスの約束の言葉を信じる決心をすることが必要なのです。
そうすると、神の霊、聖霊もその人間に内住できるようになる。そして、神と人間との交流が始まり、その人間に神の愛が注がれて、神はその人間を新しい人間に造り変えて天国に導いて下さる。霊的成長も望める。
神の創造のみ業、つまり目的がその人の上に実現するのです。いつまでも廃ることがない、聖書の言葉、「信仰と希望と愛」が実現するのです。
この信仰は神を信じること、希望は次の世での復活と天国への信仰を、愛は隣人を自分のように愛する愛をもつことを言っていると思います。
では、なぜイエスは自分が書いたものを残されなかったのでしょうか。新約聖書は、イエスの弟子が神の霊感を受けて書いたと言われています。
人間が霊感を受け書くことによりその解釈は、聖霊の働きにゆだねることができるということになると思います。もし、聖書の言葉が、神様が書かれた絶対なものなら、解釈は生まれないし、聖霊の働きも必要ありません。
神様はそのような方法を取らずに、人間の手で人間の言葉でご自分の意思を伝えようとされているのです。
もちろん、人間の言葉が不完全であることもよくご存じであると思います。もともと意思を、思いを伝える手段としての人間の言葉は不完全です。
不完全でも、人間は文字という方法でしか自分の思いを伝える手段を持っていないのですからそれを選ばれたのはいたしかたないことだと思います。
神は意思伝達手段としての文字や言葉の不完全を補う手段として聖霊の働きに任せられたのではないでしょうか。だから、聖書はあくまでも聖霊が働く場として意味があると思うのです。
神はこのように人間世界にいろいろな方法で関与し、この宇宙の背後で、創造の目的を達成するために働いておられると思うのです。
神も仏もあるものか、と叫びたくなる時があっても、イエスの言葉を信頼しこれからも生きていけたらと思うのです。
この2000年間、聖書を読みイエスを信じる者がどれほど生まれてきたか。キリスト教の歴史をみると、イエスの言葉は決して作り話などではなく、言葉の背後には神の霊、聖霊が働いておられると信じざるを得ないのです。
世界人口の3分の1以上を占めるキリスト教徒に、あなたたちは間違っていると言える自身はわたしにはありません。
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