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2010年3月 2日 (火)

苦しみと祝福

苦しみや苦難は、人間に精神的な成長をもたらすといいますが、その反対に、逆に自分が苦しみを乗り越えることに成功すれば、苦しみにある人を蔑む人もいます。このように、人間の心を一層貧しくさせることもあります。

苦しい体験から、何かを学ぶ者もあれば何も学ばない者もいるということです。貧乏で苦労した人が、成功すれば貧乏な人を大切にするとは限らない。むしろ貧乏ながらも精一杯貧乏な人を助けている人も大勢おられます。

立場が変われば、かつて自分がいじめられたと同じように、弱者をいじめることもあります。衣食足りて礼節を知る、という諺がありますが、衣食足りても礼節を知らない人もおられます。


人間、苦労が過去のものになると、いやな記憶は忘れたいもので、また薄れるものです。

アメリカの著述家、ウィル・デューランドは、「大きな苦しみを受けた人は、うらむようになるか、やさしくなるかどちらかである。」といっておられます。

このように、人は苦労したからと言って、必ずしも人を思いやる気持ちを持つとは限りません。苦労が糧として生かされるのは、やはりその人個人の人間性というか考え方の問題でしょうか。

そこにはその人の人生観があり宗教があるのだと思います。しかし、苦労を糧としている人を見るのは、喜ばしいものです。頭が下がります。

それはさて置き、聖書にこのような言葉があります。

詩編119編71節「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」

今日は、この聖句を考えてみます。神は、苦しみを祝福されます。苦しみにあうことを感謝と受け取りなさい、といわれます。卑しめというのは苦しみのことです。

神様が苦しみを祝福されるのは、キリストの十字架による罪の贖いという大切なことを教えるためであるといわれています。苦しみに祝福がある理由として、四つ上げられています。

第一に、苦しみはわたしたちを高慢(プライド)から守ります。すぐれた能力があっても高慢になれば道を踏み外します。

高ぶったその日から堕落が始まります。だから、苦しみに会い謙虚になることは、苦しみは祝福で、恵みで
あるといえます。

第二に、わたしたちは、苦しみにあうことによって、同じ苦しみを持つ人の痛みが理解できるようになります。苦しんでいる人をみて、共感、同情、なぐさめ励ますことができます。

信仰者は、神様は、無意味な苦しみを与えない。必ず苦しみには意味や目的がある、と信じています。そして、希望が生まれるのを待つのです。

第三に、苦しみは、私たちを100%神にたよらせるものにします。困った時の神頼みとなるのでしょうか、自分の無力を知り、解決を神様に委ねるようになり、この世のものをあてにする生き方を止めるようになります。

第四に、わたしたちを、神に対して従順にならせます。苦しみを体験し従順を学ぶためともいえます。ヘブル人への手紙第5章8節で、キリストは苦しみによって従順を学ばれた、とあります。

苦しみの渦中にあるときは、理屈はどうでもいい。藁にもすがりたい、困ったときの神頼み、誰でもいいから助けてくれと思った経験が誰にでもあります。わたしはそのような人のためにこの世にきた。・・とイエスは言われています。

マタイによる福音書第11章28節・29節「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすればあなたがたは安らぎを得られる。」

聖日礼拝にきて、一週間の疲れを癒して帰る。本当に思いつめて、牧師の説教を聴き教えられるところがあり、涙を流して喜んでいるクルスチャンは大勢います。

不思議に、その日の牧師の説教で、今自分が悩んでいることを解決するわけではないが癒されることがあるのです。

これらの出来事を、クリスチャンは聖霊が働かれていると受け取ります。哀しい時に癒される言葉を言われれば当たり前だと捉える人もいますが、一概には言えないのではとわたしは思います。そのことでその人のその後の人生が一変することが現実にあるのですから。

この苦しみにはきっと何か意味があるのだ、必ずこの苦しみや苦難はきっと将来神様が益にしてくださる。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。というイエスの言葉を信じて、耐えるのが信仰というものでしょう。

苦しみや苦難を、イエスの言葉を支えに乗り越えた人の中から、いま苦しみや苦難の真っ只中にいる人に、イエスの教えを述べ、その体験を語り、手を差し伸べる人々が出てきたら、そこにはきっと素晴らしい世界が広がるでしょう。

わたしは、この世の苦しみや苦難は、社会の仕組みとか価値観がそうさせるところが大いにあると思っています。

負け犬とか、弱者とか言われていますが、そのような人を生むのが社会の仕組み上やむを得ないのなら、そのような人を助ける社会の仕組みをつくるのも、また社会の義務であるかと思います。

なぜなら、今の社会の仕組みとか価値観が絶対に正しいものでない限り、つまり、自由主義社会とか資本主義社会は、より、ベターな仕組みとして選択されたのでしょうから、そうであれば、それを修正する手段も必要ではと思うのです。

そうして初めて、現状において、一応完成されたものとなるのではないでしょうか。

人間は不完全ですが、不完全なのが人間なら、いや、不完全だから人間なので、人間として完成されている、とするのと同じだと思います。

この宇宙の森羅万象に目を向けてもそのようなものではないかと思うのです。

非常に多様性に富んでいます。だから一部を見れば不完全のように見えますが、全体を見れば驚嘆するほど良く出来ています。これを人間の目から見て不完全とはとてもいえません。

最後に、内村鑑三先生の言葉を記しておきます。

「苦痛を天罰という者は誰であるか。前世の報いであるというのは誰であるか。われら信者にとって苦痛は最大の恩恵である。キリストを知るの唯一の道である。彼と同情を交わすの唯一の方法である。苦痛の階段をたどりてこそ、われらは父の御国に入ることができるのである。されば来い、苦痛、われは汝を歓迎せんである。」。

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