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2010年2月12日 (金)

神の計画

わたしの過去の人生の、その出来事の一つ一つが神様の御計画であると、振り返って信仰の目で見てみると、そこには意義のある新しい人生が浮かびます。

聖書によれば、我々の人生は、創造主である神様により計画されているということです。そして、神様のわたしたちの人生のあらゆる出会いの中のすべてので出会いかはわかりませんが、関与されているということです。

どちらにしても、出会いとは人との出会いに限らずあらゆる出会いです。


つまり、両親など人との出会いのほかに、生まれた時代、生まれた国、生まれもった環境、選んだ学校、選んだ職業、出会った書籍、体験した病、体験した地震など自然災害ほか自然現象も含むその他すべての出会いです。

もちろん、計画されていても神様は決して強制されませんから、その出会いを神様のものとして受け入れるかどうかは人間です。

それにその計画が全て今の人生で成就されるかどうかもわかりませんが、選んだ出会いが神様の御心に叶うなら、そこには平和と希望があります。

なぜなら、旧約聖書エレミア書第29章11節「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。

それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来に希望を与えるものである。」とあるからです。

神様はわたしたち一人一人に違った賜物を与え用いてくださっている。

だから神様は、その賜物をどのようにわたしたちが用いたかを問題にされると思うのです。用いたかということですから、何も健康に生まれたのが自慢でもなく、優秀な頭脳を持って生まれたのが自慢でもなく、病弱であっても

その中で、自分が神様から頂いた能力を活用して一生懸命に生きることのほうが大切だということです。それがたとえ人と比べて百分の一の出来栄えであってもです。

優秀な頭脳を持ちながら、無駄に人生を送るよりははるかに神様は祝福されると思います。

マタイによる福音書第16章27節「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」

そうです、裁きでなく報いとなっていますから、信仰によって救われるが、いただいた賜物をいかに用いたか、神様の御心にいかに忠実であったかにより、褒められる、祝福されると思うのです。

人生は、全体にして一つになるようにご計画されていると思うのです。人生に於いて、学ぶということは、あるいは学ぶために生きることは、生きていて良かった、生きていたからこそ、このことが学べたと思える、そういう学びを求めることではないでしょうか。

もちろん学びというからには、若いときの艱難辛苦も学び、素晴らしい書物とか人に出会うのも学びといえると思います。

とくに書物は、時代を超えて人と出会える。これなど、人間に与えられた特権といえるのではなかろうか。

そうであるなら、時間があり、経済のことも細々暮らすなら心配がなく、力で人生をわたる時代も過ぎて、少しは知恵もついた老境ほど楽しいものはないはずだと思うのです。

そういう出会いと学びの中で、神様の自分への計画が少しでも分かれば、きっと賛美をしたくなるし、神様への感謝が湧き上がるのだろうと思うのです。

神様を知るということが、それほどすばらしいことだと、神様を知った先人は例外なくそのように伝えています。人生を楽しく生きるこつは、おそらくこの辺にあるのではなかろうか。

そういう意味でも、人生の目的は、神様を知ることだと思うのです。

多くの人が、自分の人生の意義や使命を見出すことができないのは、神様の存在が、また、自分が存在する意味がわからないからだと思うのです。

自分の心に平安を持つことができないのは、神様が自分を造られたこと、何か特別な目的のために造られたことが分からないからではないのでしょうか。

わたしたちはその他大勢ではないのです。一人ひとりがオーダーメイドだということです。唯一無二の存在だということです。

命が粗末に扱われるのは、どの命も神様が命を与えられて、その命にご計画があるということが分からないからではないのでしょうか。人を殺すのは、殺された人の神様の御計画を踏みにじることになるのです。

旧約聖書イザヤ書第43章4節「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し・・」です。

神様の御心に素直に従っていれば、最後には、わたしを神様のものにしてくださる、と信じることができる心境になりたいと思います。

人生は、若いときの力まかせの盲目的な生き方から、愛を知るようになり、愛を求めるようになり、やがて老境に至って愛こそ力に他ならないと悟れるようになるのが、最終目標ではなかろうかと、わたしは最近考えるようになったのですが、還暦を過ぎたにもかかわらず、現実にはなかなか難しいものがあるのも事実です。

まだまだ自我が強く、キリストに己をゆだねきれていないのだと思います。

若いときのぎらぎらしたところとか、無謀な冒険心はもうありませんが、キリストに出会い、やっと、人生とは何かを知る一歩を踏み出した思いです。このままでは、まだ死ねないと思います。

人生は出会いで決まるとよくいわれますが、それは出会いが人を成長させるからで、その出会いを設定されたのは神様のご計画であればなおさらです。

だから、どのような出会いも恵みと受け取り感謝すべきと思うのです。

その出会いが神様のご計画ならばスムーズにことが運ぶと思いますし、そうでなければその出会いが成就してもいろいろと障害が出てきて困難が伴うと思います。

艱難も病との出会いも神様のご計画と思えば乗り越えられるかもしれません。そのように思えたら、希望がもてて耐えられるかもしれません。

いままで生きてきた人生で出会った無数の人々に、もちろんその中には、通り過ぎた人もいれば深くかかわった人もいるが、書物との出会いも含めて、どのような出会いであれ、その出会いはわたしと言う人間の成長に欠かせない出会いであったはず。

もちろん、わたしにとって人生を180度転換させる最大の出会いはキリストとの出会いでした。

どのような小さな出会いにも、その出会いが神様の関与とすれば、無意味な出会いはないはずで、最初の出会いが気がつかないほど小さな出会いであってもいつの間にかその小さな出会いが育まれ、自分の人生を大きく変えるほどの出会いになるかも知れません。

そのように考えると、これからの残された人生に、どのような出会いが待っているのか、神様がどのような出会いをご用意して下さっているか、楽しみになります。恵みに感謝したいと思います。

「神の国は何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、・・」(マルコの福音書第4章30節)

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