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2010年2月17日 (水)

歴史の背後に(2)

最近は、テレビを見、新聞を読むたびに、もう嫌になる、心が暗くなる記事が多い。見たくも聞きたくもないと思います。世界のどこかでいつも戦争がおこっています。そのたびに大量の殺戮が正義のもとに行われ、膨大な難民と貧困層が発生します。

国内では、子が親を殺し、親が子を殺し、誰でもよかったという理由で人を殺す。本当にどうなっているのでしょうか。事実は知っておくべきでしょうけれど、無感動になっていく自分が怖いと思います。

その中に、我が身の無力さとともになぜもう少しなんとかならないかと思ういらだたしさと、無秩序が支配している世の中に、静かなれども力強いどうしょうもない歴史の流れといいますか、強い意思を感じる時があります。


それは、この世界の歴史を支配しておられる神の意思であると思うのです。
どこの国の人であろうと、人間個人に戦争を望んでいるかを聞いても、きっと望んでいる人間など殆どいないと思います。

集団になると、国家となるとなぜこうも戦争をしたくなるのでしょうか。国家となると、罪の意識も薄れるのでしょうか。そこにサタンも働きやすいのでしょうか。

人間個人の心の痛みは、全体には通じないのですね。もちろん、戦争を起こす人間の中には、富という偶像にとらわれた哀れな独裁者、殺戮者もいます。

その人たちの末路は、きっと惨めなものでしょう。いや、それは人間の願望で、イエスはそう言う人でも、本当に自分の罪を悔い改めたら罪が赦されて天国へ行けるといわれています。

問題はその人間の本当の姿はどうなのかということだと思います。

もしかしたら、その人を無慈悲な人間に育てたのは、教育であるのか、育った環境が悪かったのか、肉体の病が原因で心を病んでいるのか、それにサタンの働きを認めるならばそのせいかもしれません。

本当のその人はやさしくて思いやりのある良い人かもしれません。このように考えると、罪を憎んで人を憎まず、という考え方も分かる気がします。

国家の指導者も、個人としては、戦争などしたくはないと思っていても、変えられない大きな歴史の流れに流されている。

その歴史の流れの中に、政治や経済の背後に、神の支配が貫かれている、と思いませんか。

ソ連の激変の中で、あらわになったスターリン時代の「粛清」の事実を知り、その内容のすさまじさのゆえに改めて衝撃を受けました。

スターリンは権力を維持するために数千万人の国民を「粛清」したという。何の罪もない人々を殺し、シベリヤの抑留所で餓死凍死させたのでした。

このような血の上に立つ権力は存続できるはずがない、かならず滅びると思う。その滅びるとき、神の歴史への介入が顕わになるとわたしはとらえます。

イラクもしかり、中国の毛沢東もしかり、北朝鮮の金正日もしかりであります。神の怒りが満ちるとき歴史は大きく動くと思うのです。わたしは、そこに人間の力ではどうしょうもない歴史の流れを見るのです。神の歴史への関与を見るのです。

旧約聖書をみても、神は、罪の無い者の血を流すことを決して赦されない。その神が、歴史を支配しておられる。

この事実を認めることは人間にとって必要なことかもしれない。神は、謙虚になりなさいといわれている。
わたしたちの国も、先の大戦で多くの罪のない人の血を流した。

戦後の日本の繁栄はその罪への悔い改めの上に成立したのだと思う。現在の繁栄は、平和に徹して血を流すことを止めたことに対する神の祝福であるととらえるべきだと思う。

しかし、この繁栄で再びこころ高ぶり、国内国外の弱者の涙を放置し、声なき自然環境を破壊することを続けるならば、弱い者の味方である神は、決してその罪を見逃されないと思う。

神を畏れるとは、そのような神が歴史を支配しておられることを認め、謙虚になることだと思う。現在の日本は富という偶像を拝み、歴史を支配する神を恐れることがない。

ほとんどの人は神を知らないし、また、知ろうとしない。クリスチャン人口が全人口の1%に満たないという現実はどのように考えればよいのでしょうか。

今年日本は大きな選択をしました。民主党政権の誕生です。わたしは民主党の政策に一抹の不安を持っています。しかし、このようなドラスチックな政権交代が実現したのは、その背後に神の摂理が働いていると思うのです。

だからわたしは民主党政権を信じるというより、神の摂理を信じたいと思います。神はこの国をどこへ持っていかれるのか時間の中を生きるわたしにはわかりませんが、神を信じ祈りたいと思います。

こうした神を知らない人々の中にも、神の摂理が働いているなら、必ず訪れる裁きに対する恐れるとともに、何事も無駄はなく益としてくださる神を信じたい。

それは、神を信じる者も知らない者も最終的には神の祝福をうけて救われることを願うものです。

宇宙創生時に、そして2000年前に光はこの世に来ました。神の言葉と共にきました。

混沌という無秩序に向かっているこの世界に、神は必ずや光となって三度こられる。こられるのは、明日かもしれないし1000年後かもしれない。その日は、誰も分からないから目をさましていなさいとイエスはいわれる。

こんな話、皆さんは信じますか、といっても、簡単に信じる人となかなか信じられない人が現実にはいます。

誰が信じるか分からないからクリスチャンは誰にでも手当たり次第にイエスの御言葉を伝えるのです。

聖書には、信仰をもつのは、神の霊、聖霊の働きによると書かれています。

だから、み言葉を聞いた人が、そのみ言葉に触れて信仰を持つとき、み言葉に聖霊が働かれて、その人が聖霊の働きを受け入れたということだと思います。

イエスは十二弟子に、御言葉を伝えることを命令されただけで説得するようには命令されていません。誰が信じるかは神のみぞ知る、ですね。

そして、チャンスは誰にでも与えられるが、イエスの御言葉を信じるか信じないかは、本人の自由意志に委ねられているのです。

さて、イスラエル民族の信仰の歴史を見てみると、イスラエル民族は、神との契約とか預言者を通して語られる預言という伝承を、歴史の中で、体験を持って一つ一つ確認してきました。

預言という伝承が体験をもって実現した時に、歴史は意義を持ち、ということは、体験を、神が関与されていると確信することができて、歴史の中に生きたものへと変貌したのだと思います。

だから、イスラエル民族は、歴史の背後というか、歴史上の出来事に神の働きというか、存在を見てきた、確認してきたといえるのではないでしょうか。

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