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2010年2月 5日 (金)

わたしの救いの証

わたしが所属している教会から依頼があり、教会の月間福音誌二月号にわたしが救われたときの証を投稿することになりました。

その原稿を投稿します。字数に制限があり、思うところを全て書けなかったのですが、コンパクトにまとめましたのでよろしければ読んでください。

<人生を二分するイエス様との出会い>

わたしがイエス様に出会ったのは、14年前で、既にクリスチャンであった妻との出会いがきっかけです。イエス様との出会いは、わたしのその後の人生をまさに二分しました。


妻と出会ったその頃のわたしは、もう五十を過ぎていまして,残された人生もあとわずかとなり、何を心の支えとして生きればよいのか、自分に問い掛ける毎日を過ごしていました。

もちろん、キリスト教には全く関心がなく、生まれてから教会へ行ったこともない人間でした。

そのような男が51にしてイエス様と出会ったのです。その時がわたしにとって神様の時であったと思います。

信仰を持ったきっかけは、マタイの福音書6章25節から34節を、とくに「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。

けれども、あなたがたの天の父がこれを養ってくださるのです。・・」を読んだ時です。

御言葉に聖霊様が働かれているという不思議な体験、その体験により、生きとし生けるものの命の一体感と命は輝くものだということを知りました。

そして、イエス様のことをもっと知りたいという強い思いが与えられました。また、数年前に、聖霊様の働きであると思いますが、自己の存在自体が罪であることを深く自覚せられ、悔い改めの祈りに導かれました。

それから14年、わたしは物の考え方見方が180度変えられました。自己中心的な生き方から、生かされている恵みに感謝する生き方に変えられました。

<イエス様と共に>
洗礼を受けたのは、わたしにとって信仰生活の第一歩がはじまったということです。なにしろ、イエス様の教えがすべてわかって洗礼を受けたわけではありません。これからの人生をイエス様と共に生きていこうと決心したから受けたのです。

わたしは、キリスト教のことを知りたいと言う強い思いが与えられましたので、仕事の傍ら、聖書を読みながら関連する書物もずいぶん読みました。このようにして、わたしの信仰は少しずつ成長していったと思います。

いまは聖書のもつ不思議な真理の魅力にとりつかれて、座右の書として片時も離せない日々を送っています。

ヨハネの福音書8章31節「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほうとうにわたしの弟子である。」

<忍耐と希望>
この14年間に、職場の倒産、義父の死、父の死、娘の病気との闘い、その娘の突然の死、そして友人の死という悲しい出来事が続きました。

いずれの時も必死で祈り、ただただ神様に全てを委ねて毎日を過ごしてきました。おかげ様で、祈りが叶えられ、再就職にも恵まれ、無事定年まで勤め、心配した妻の心もいやされ今は平穏な日々を送っています。

また、人の死についても深く教えさせられる機会を与えられました。これも神様の恵みと感謝しています。

試練に会い学んだことは、試練は神様からの恵み、だから逃げないで、祈りと忍耐と神様への信頼で乗り越えるものだと思いました。

それからのわたしは、何があっても神様はわたしを助けて下さる。どのような状況にあっても神様を信頼していれば希望を与えて下さる。

だから忍耐できるということを、身を持って確信しました。残された人生を、目を覚まして、わたしを求めて歩きなさいと言われています。

ローマ書5章3節4節「患難が忍耐を生みだし、忍耐が練られた品性を生みだし、練られた品性が希望を生みだすと知っているからです。」

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