来世はあるのか(1)
来世は死後の世界と言い換えてもよいのですが、聖書によれば来世はあることになります。来世それ自体はほかの書物でも実証をもって実在すると書いてある本もあります。
ということは、霊魂と肉体は別だということになります。ここで来世について一つの考え方を書いてみます。
来世があると考えれば、この世の苦痛は来世への希望に、期待に慰められ、この世を厭わなくなるかもしれません。
そして、この世を来世への準備場所と考えるとこの世の出来事はこの上ない価値をもつことになります。
この世の出来事は、来世がなければ死んだら終わりで、そのもの自身なんの価値もない。そうであれば、この世は弱肉強食が跋扈する修羅場です。どれだけ罪を犯しても、死ねば終わりですから。
そこには、正義はありません。秩序もありません。混沌だけです。この宇宙が、いろいろな普遍的な法則で秩序が保たれているのに、人間世界だけにはそれがないのでしょうか。
けっしてそうではありません。どのような人々も、良心を持ち、正義を愛し、善を愛し悪を憎む心を持っているのです。
つまり、これらの法則は混沌の世界には生まれません。
来世があるとすれば、創造主が存在する、創造主が存在するならば、その創造主が愛の神ならば、義の神ならば罪というものに対して裁きがあってもおかしくはありません。
人間に内に、あるいはこの世の森羅万象の中には多数の法則があり、その法則で秩序が保たれて成り立っていると思うのです。
そこに何ものかの創造の意思を観ることができ、創造主の存在を認めざるを得ないとわたしは思うのです。パウロは次のように言っています。
ローマ の信徒への手紙第1章20節「 世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。
従って、彼らには弁解の余地がありません。」
そして、創造主がいるならば、創造した人間社会に目的とか計画があると思います。創造主も、人間を造るからには無意味なものを造るはずがないと思います。人間が機械を造るのは、必ず目的があって造っているように、であります。
この世の不条理は、来世がなければ理屈が合わない。この世を因果の法則が支配すると考えれば、この世が原因ならば来世は結果になる。したがって、罪に対する裁きは来世を含めて必ずあることになる。
もちろん、この罪とは、この世で裁かれる行いの罪だけでなく、原罪と派生する思いの罪も入ります。初めがあれば終わりもあるのです。このような考え方は創造主なる神の存在を信じることを前提としていますが。
創造主なんかいないと思われる方、たとえばこのような考えはどうだろう。殺人は罪であることは、誰もが知っている。しかし、よく考えれば殺人が罪でなくても良いのではなかろうか。たとえば、戦争である。
戦争で殺人をしても罪とはならない。殺人が、いついかなる場合も罪であるとはいえない。普遍ではないのである。ならば誰が殺人を罪だと決めたのだろう。
人類の歴史を見ると、殺人が罪だと規定したのは、旧約聖書の十戒が最初ではなかろうか。また、だれもがもつ良心というのも、人間が偶然にできたものなら、誰もが共通の良心を持っている必要はないのではなかろうか。
共通でもっているということは、法則になる。法則であればだれがその法則を決めたのだろう。偶然には法則は生まれません。
創造主があるからこそ、創造主が人間世界の秩序を維持するために備えられたものだと考えられないだろうか。そこに創造主の意思を感じないだろうか。
人間が、偶然この世に生まれたものならば、良心なんてなくても良いはずです。
何度も言いますが、人間の体とか心、そしてこの宇宙の森羅万象をみると、このような複雑なものが偶然できるのだろうか、そこには物理法則を含めて、あらゆる法則と秩序があります。
創造主の存在を感じます。このようなもの、偶然に出来ると思いますか。それこそ信じられません。
人間の寿命は、わたしたちの人生は、唯一の神様が支配されています。短命の人、長命の人、苦労して人生を歩む人、楽して人生を歩む人さまざまです。
それでも来世があるから、その来世とこの世を支配されている唯一の神様がおられるから、命を支配されている神様がおられるから、いつ死んでも同じ、と言えませんか。
イエスは、この世の不公平とか不条理のために、めぐりあわせによりたまたま不幸になった人は、幸いであると言われています。
来世があるなら、この世は来世のためにあると言えませんか、それならなおさらどんなに恵まれない人生を送っても恵まれた人生を送ってもいっしょ。
この世も来世も、支配されている神様は唯一の同じ神様ですから、最終的には帳尻を合わせてくださると思いませんか。
どのような人生も、その人生は神様がわたしにと決められた人生です。そうであれば、仕事が終われば、神様のおよびがあれば、さっさとこの世にお別れしたいと思います。
この世に未練をもっていたら来世にいってもきっと良い結果は生まないと思うのです。
死後の世界がある事を示した本を紹介します。
ハート出版の「迷える霊との対話」という本です。精神科医が、自分の妻に迷える霊を憑依させて、その霊と対話した記録です。事実ですよ、びっくりしますよ。目に見えるものだけが全てではないと思わせられます。
空気だって、目には見えないけれど存在するでしょう。霊だって同じだと思います。よくおこる怪奇現象は、全てが本当ではないし、全てが嘘でもない。一部は事実であると思っています。
ヘブライ人への手紙第9章27節「 また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、・・・」
「来世はあるのか(2)」に続きます。
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