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2010年1月20日 (水)

来世はあるのか(2)

「来世はあるのか(1)」からの続きです。
創世記第1章26節には、「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう。」とありますから、神様は、人間を神に似せて造られました。

似せて造られたとは、神様は創造主で霊でありますから、これは何も神様と人間が同じような形をしているのではなく、それは人間は他の被造物に対しては神的存在であり、

神に似て自らを知り、意志を持ち、創造主は被造物である人間一人ひとりとの人格的交わりを求めて人間に霊を、そして考える力、知性を授けられたということだと思います。

人間以外の自然万物は、自然に造られたままの姿で神に従い自然本能的に生きるだけです。

霊の性質を与えられたということは、霊は本来永遠であるから、神様は時間の中に生きる人間に、永遠を思う能力を与えられていると思います。

だから、人間が来世を考えてやまないのももっともだと言えます。

だから人間は、自分が死んでも霊は永遠であると直観的に知っていると思うのです。

これは人間以外の動物にはないと思います。だから人間は、おそらく、この地上に誕生以来、死後の世界の存在について肯定的に考えてきたと思います。

だが、来世が未知のものであることには変わりありません。だから、宗教の世界で論じられることになります。

死後の世界とは、どのようなか状態であろうか、わたしには確実なところは何も分かりません。

それは隠されていることで人間にはわからないとしかいえません。聖書には、天国のことは少し書いてありますのでまた別の機会にまとめてみます。

前にも書きましたが、人は死ねばどうなるのであろうか。死後の世界はどのような世界であろうか。キリスト教のいう永遠の世界とはどのような世界であろうか。

これは、人類の永遠の疑問であります。全て古今の宗教は何らかの形でこの問いに答えようとしています。わたしも別に細かく調べたわけではありませんが、その答えはもう一つわからない。

テレビでそのようなことをよくやっていますが、本当かなと思うだけであります。死後の世界を否定し、人は死ねばいなくなるだけだと考える人も一部おられますが、科学の世界ではおそらく否定も肯定もしていないと思います。

無宗教の人が多い日本でも、死後の世界の存在を否定する人は少ないのではなかろうか。亡くなった人にまた会いましょうと、よく言います。いやこれは信仰ではなく、願望がそのように言わせているのかもしれませんが。

しかし、宗教の世界では死後の世界があることが前提になっていて、あるのが当たり前のこと。しかし、この疑問は今もなお人類の問いとして続いているのも事実であります。

では、聖書は人類のこの疑問に対してどう答えているのだろうか。死後の問題については、聖書はまずイエスの死からの復活の事実をもって創造主である神様がおられることと、死後の世界があることを教えています。

創造主なる神は、イエスを死人の中から復活させて、終わりの日に成し遂げると約束されている人間救済の業を開始されました。

この御業の主であるイエスをキリストと地上にいるときに信じた者は、肉体が滅んでもイエスが復活されたように、その者は終わりの日に死者の中から復活すると約束されている。

クリスチャンは、この神の約束により、死後に復活を待ち望んで生きている。

しかし、これは最終的な約束で、それが成就する時まで、クリスチャンも死ねば死者の世界にいることになる。

その世界は、パラダイスとも言われているが、どのようなものであるかについては、もう一つわからない。

なお、クリスチャンでないものは、死ねば陰府にいくといわれています。

聖書のイエスの教えを信じて生きる人生においても、死後の世界のことは分からないという事情は変わりません。

けれども、聖書にあるイエスの教えを信じてキリストに結ばれて、キリストと共に生きる者には、一つだけ確かに分かっていることがあります。

それは、クリスチャンは、今この地上の人生で復活した聖霊なるキリストと出会い、キリストに結ばれて、キリストと共に生きているが、この同じキリストが死後の世界でも「主」として治めておられるという信仰であります。

このことを新約聖書はこう表現しています。「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」(テサロニケの信徒への手紙I 5・10)。

ここで「目覚めている」とは地上に生きていることであり、「眠っている」とは死後の世界にいることであります。

キリストは、生ける者と死せる者の主、この地上の世界と死後の世界の主であるということです。

クリスチャンの死後の世界についての信仰と希望は、ただこの一つの事実、イエスの死者からの復活の事実に基づいています。だから、イエスの復活がなければキリスト教はないし、来世の存在も怪しいものです。

復活が事実とどうしてわかるのかという質問には、この2000年間に、イエスに出会い、イエスを信じ人生を変えられた人が数えきれないほどおられるという事実が証明していると思うのです。

もちろん、マザーテレサもその一人です。この人たちの人生をかけた証言をあなたは否定できますか。その背後には、何か目に見えない霊的力が働いていると思いませんか。

地上の人生でイエスの救いの御業と、聖書の御言葉を信じなければ、来るべき世に関する約束はすべて言葉だけのものになり、確かな根拠は何もなくなります。

クリスチャンは死に逝く時に、同じ信仰を持つ兄弟姉妹と、次の世に希望をもって再会を誓います。葬式の席でクリスチャンでない方がよく言われる「またあの世で会おうね」という願望ではないのです。

それは聖書に記され、イエスが復活を持って証されたことを根拠とするイエスとの約束なのです。

このように、しっかりとした信仰を持っているクリスチャンは、平安と希望をもって、次の世の主であるイエス・キリストにすべてを委ねてあの世に旅立ちます。わたしもそうでありたいと願う者です。

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