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2010年1月10日 (日)

続・人間とはなんだろう

野生児をご存知ですね。野生児というと、四つんばいになり、地面に置かれた皿に口をつけて食事をする狼っ子を想像しますが、野生児の特徴として野生児をインターネットで検索すると、次に様に解説されていました。

四足、言葉を話さない、正常な歩行が困難・音声言語を持たないという特徴は多くの事例に適合するということです。

このほかに、野生児には、暑さや寒さを感じないなど感覚機能が低下している、情緒が乏しく人間社会を避ける。
羞恥心が無く衣服を着用しようとしない。


相応の年齢になっても性的欲求が発現しにくい、または発現しても適切な対象と結び付けられない。生肉・臓物など調理されていない食品を好むといった特徴がしばしばみられるということです。

ある本に野生児に出会った牧師の話がありましたので引用します。

「インドのカルカッタの近くで、伝道に来たキング牧師が、村人と共にオオカミの洞穴から二人の女の子を発見した。二歳ほどの子は間もなく死んだが、カマラと名づけた八歳くらいの子は、九年間十七歳まで生きて尿毒症で死んだ。

牧師の育児日記によると、始め、その姿は人間であるが、その振る舞いはオオカミに似ている。日中は暗い部屋で、じっとうずくまってうとうととしているようである。暗くなると四足で這いまわり、夜中に三度オオカミのように遠吠えをする。

食べ物は、口を近づけてペチャペチャと食べる。もちろん言葉は一言も言わない。こちらの言葉も通じない。ほかの子供と交わらず、近づくと厭な声を出す。

こうして二本の足で立って歩くのに三年かかった。しかし急ぐ時はやはり四足になる。やっとそのころ手で食べるようになった。しかし言葉は、死ぬまで、七年間に四、五語しか言えず、知能は三歳半位であった。という。」

これを読んで、改めて人間について考えさせられました。

人として生まれても当然人間に育つとは限らないということです。ということは、父母や家族、他人との交わりがなく、人間の社会から離れて、ひとりで、または獣と共に暮らすと、人間にはなれないということです。

人間は人との交わりがなければ人間になれないのです。

人間は、人と生まれても野生動物に育てられたら、野生動物と同じようになるのです。野生動物は、野生動物として生まれて人に育てられても、やはり野生動物なのです。人間と同じようにはならないのです。

野生動物を人間が育ててから野生に戻すには、やはり狩猟本能などは目覚めていないので、すぐには無理としても、やはり野生動物です。

こうして、言えることは、人間と野生動物は全く別の存在として造られたということです。人間は人に育てられなければ人間にならない。

人が人間に育つためには、人との関係が、人間としての教育がどうしても必要だと言うことです。それもとても長い時間、成人は20歳となっていますが、一人前の人間と言うのを自立と考えると、それ以上の年数を必要とします。動物は非常に短い時間で自立します。

人間にとって、如何に育つための環境と教育が大切かと言えます。幾ら素晴らしい資質を持って生まれてきても、それを育てて花を咲かせ実をならせるのは人間だということです。

だから、生まれてきた子供がどのように育つかは、第一に、生まれた時から直接かかわっている親の責任であり、そして、学校であり、社会の責任だと言うことです。

「親がなくても子は育つ」という諺がありますが、それはその子が育つ中で関係した人間に育てられたということです。

創世記第1章26節「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」。

創世記第1章27節「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」この聖句は、明らかに人間は他の動物と違って特別だと言うことを語っていると思うのです。

人は他の諸生物、海と空と地のすべての動物と違って「神のかたち」に創造されました。しかしそれは外形的な姿、かたちのことでないことは明らかです、また、人は他の造られたすべてを支配し治めることが許されていることもわかります。

その他に、他の動植物と人間はどのように違うかといいますと、生物は自然に生じ、そして滅びます。人間以外の動物は、自然的本能的に生きそして死にます。

つまり、造られたままで生涯を送り死ぬのです。そこにはなんの疑問もないのです。それよりほかにどうしょうもない。

そこには自由がないから責任もない、善も悪もないと言えます。ライオンが人を食い殺したとしても罪でもないし悪でもない。そのように神に造られているからそのようにしているだけです。

しかし人間は、自分を意識し、相手を意識し、自由意志を持ち、考え、判断し、行動する。だから、自分で善悪を判断し、悪を意識し、神に逆らって行動することもできる。

だから、人間はいつも善か悪か、これかあれかの選択の前に立っているといえます。

このように人間は、人格的存在であり、自由意志を持ち、神様のご計画の範囲内で自分の人生を選べるのです。だから人間は犯した罪には責任を取らねばならないと言えます。

野生児との関係で言えば、人間として生まれても人間になるのには、育った環境とか教育が必要です。

それらをもたらすのは人間関係、他者との出会いだと思いますので、他人との出会いについて考えてみたいと思います。

わたしたちは、自然に生れてきて成長したのではありません。

また、一人で生まれてきてひとりで努力して大きくなったのでもありません。

両親があり、両親がいいことをして、わたしが生まれて、そして、父と母と、兄弟姉妹と、友人と、先生たちと、時には人生の師匠と出会い、会社の上司・部下・同僚とほか仕事関係での出会いなどなど。

また、人生を横切る形で出会った他人もたくさんいます。

そのような出会いの中で色々な、たとえば、聖書とか、書物とか、学問とか、職業とか、食べている物、着ている物、居住場所との出会い、ほか色々な形の出会いがもたらされて、わたくし本人に、わたくし本人が意識していようがいまいが大きな影響を与えて、わたしという人間が形成されているのです。

その中でわたしは、自由意志も持ち、その人たちの影響を受けながら、物事を考え学び成長して今があるのです。

こうして考えると、わたしは自分一人ではなく、他人(自分以外の人)によって成ったと言えます。わたしの生活とか考え、生命、存在、自由すべて他人によって与えられているのです。

他から与えられていないのは何もないと言えます。

そうでしょう、わたしの命、肉体、持って生まれた賜物は神様から無償で与えられたものです。だから自分のものなど何もないのです。

生まれ持った資質は神様に無償でいただき、他人によって造られ、他人によって自由は限定(自由意志が与えられていても完全な形で自由意志を行使できないのです)されているのです。

その中の一つでも欠ければいまのわたしは存在しないと言えます。言い換えれば、わたしは他人の塊であり、わたしと他人とは別であり一つだということです。

生まれてから今日まで、随分いろいろな人と様々な形で出会ってきました。そこには、別れと交わりがあり、行き違いがあり、愛があり、人生をただ横切るだけの交わりもありました。

このようなことをくどくどと書いたのは、これから人生が始まる若い人は、何よりも人間関係、他人との出会いを大切にしてほしいと思うからです。

あなたの人格形成に、人間形成に、あなたが気がついていようがいまいが、他人との出会いは、大きな影響を持っているからです。

人間関係と言うものはうっとうしい時もあります。色々な人と出会い、色々な状況があって、行き違うこともある、それは避けられないことでもあります。

なぜなら、人と人との出会いは人格的な出会いであり、それぞれが自由を持った出会いであるからだといえます。

言い換えると、わたしはわたし、あなたはあなたです。だけど、あなたなしにはわたしは存在しないし、わたしなしにあなたも存在しないのです。

わたしとあなたはお互いを必要としながら、お互いに影響を及ぼしながら共に生きる人間です。人間関係とはこういう関係だと思います。

ということは、自分を愛することは他人を愛することになり、他人を愛することは自分を愛することになるので、イエスの「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコによる福音書第12章33節他)という聖句の真意が分かるように思います。

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