人間とはなんだろう
わたしたち人間は、一体どういうものだろう。この世に生れて育ち、苦しみ、愛して死んでいく。幼くて死に命もある。
地球の年齢は三十億年以上六・七十億年と言われている。その中の人間の文明史は、一万年位であろうか。
わたしたちの寿命は長くて九十年から100年。
わたしたちはその中で短い命を生きている。我々の住む地球は、銀河系と言う島宇宙の、その中心から遠く二万七千億光年とか離れている太陽系の小さい一惑星。
その小さな惑星で、われわれは生まれ短い人生を送り死んでいく。これらに何の意味があるのだろうか。
さて、人間って何だろう、何処からきて何処へ行くのだろう、なんて考えたことありますか。回答は出ましたか。
殺し合い、愛し合い、助け合い、とりあえず今まで存続してきました
。この世のものは、一つとして永久に存続するもの、不変のものはありません。人類の歴史は殺戮と破壊と建設の歴史ともいえますが、絶滅せずに済んできたのは、生存本能のなせる業、いやいや神様のおかげかもしれません。
自分は、何処からきて何処へ行くのか誰にも分からないというのが本当のところだろうと思います。でも誰も彼もが今を一生懸命生きている。
そのようにせざるを得ないからそのように生きている。人間とは何だろう、と自問自答しましても、やはりわたしには聖書がどのように答えているかを自分なりに調べて一応の答えを出すしか方法は知りません。
創世記を見ると、万物の創造主は、モーセの問いに「わたしはある。わたしはあるというものだ」と答えられたとあります。
その神がこの宇宙を、人間を創造された。聖書には、人間創造の目的は、神をあがめ、助け合い、赦しあいながら平和な生活を送ることによって、神の栄光をあらわすために造られた、と書いてあります。
そして、聖書は、創造には、かならず目的(神の御旨)があるので、その目的に添って生きていくのが一番大切だといっていると思います。
わたしたちが道具を造るのは、必ずその道具の用途・目的を一方的に決めて造る。
道具は自分がどのように使うかを考えて造るもので、道具にその意向を伝えて相談したりはしない。
同じように、創造主である神も自分勝手に用途を決めて人間を創造したのなら、造られた道具たる人間は造られた目的を果たすべき「義務付きで」最初から存在していることになると思います。
だから、人間創造の目的が、神をあがめ、助け合い、赦しあいながら平和な生活を送ることによって、神の栄光をあらわすために造られたのなら、人間は創造主である神の意志にそって生きているかぎり、そこに平安があり歓びがあり希望があると思うのです。
創世記2章7節、「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。
人はこうして生きる者となった。」は、人間の肉体は土の塵で神によって造られたと述べています。そして、命(霊的命を含めて)は神からのものと述べています。
このように、人間は、神の被造物であるというのが大前提です。
それでは、他の動植物と人間はどのように違うかといいますと、生物は自然に生じ、そして滅びます。
人間以外の動物は、自然的本能的に生きそして死にます。それよりほかにどうしょうもない。造られたままの状態で生涯を送るといえます。
そこには何の自由もないから何の責任もない。善も悪もない。ライオンが人を食い殺したとしても罪でもないし悪でもない。そのように神に造られているからそのようにしているだけです。
しかし人間は、自由意志を持ち、考え、判断し、行動する。だから、自分で善悪を判断し、悪を意識し、神に逆らって行動する。だから、人間はいつも善か悪か、これかあれかの選択の前に立っていうるといえます。
創世記2章15節から17節に、主なる神は、人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
ただし、善悪の知識の木の実からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」とあります。善悪の知識の木の実を除いて、人間は自分の必要に応じて何を食べてもよいと神は言われる。
人間は何を食べても自由であるが、善悪の知識の木の実だけは食べることを赦されていないのです。言い換えると、善悪の判断だけは神の支配においておきたかった。神はおそらくそうすることが人間のためになると思われたのだと思います。
もし、人間がこの世のすべての善悪を判断するということは、絶対的な力を持つということになり、人間が神のようになるということ。
この神の戒めを破り神を否定したのが人間の最初の罪と言えます。不法と不条理がはびこる、人間の歴史、今の世界はその結果として、起こるべきして起こったと言えます。
これが人間の現実の姿と言えます。善悪の木の実を食べると死んでしまうとありますから、このままでは、人間は滅んでしまうのではないでしょうか。
さて人間は、アダムとイブの時代にサタンの誘惑にのり、神から離反して罪人となりました。神との交信が途絶えたとなっているが、そもそもエデンの園がおかれたときには、この宇宙はすでにサタンが支配していました。
創造主である神様は、サタンが支配する宇宙の中に地球を創造し人間を創造し、エデンの園を置きました。
結果は明らかであります。エデンの園が平和な状態で永久に存続しつづけられると思われたのであろうか、全てをご存知である神様がそのようなことがわからないはずがない。これは、なにを意味するのだろうか。
神様は必要があってなされたはずである。
おそらく、人間が、神が食べてはいけないという善悪の知識の木の実を食べたのも、サタンの誘惑に乗ったのもこれすべて自由意志を持つがためといえないでしょうか。神の定められた法を破るのも守るのも人間の自由です。
人間には、自由意志をもつゆえの責任があると言えます。
神との交流の回復は、神からのアプローチ以外ないと思います。なぜなら、罪を許す権利は創造して法を定めた神にあるからです。法を犯した被造物には何の権利もありません。
ただ創造主である神の一方的な恩恵による恵みにすがるほかないと思います。
神は人間を愛するゆえに、一度失われた人間との交信を復活し、罪の中から人間を救うために、御子イエスをこの世に送られ、イエスの十字架により過去・現在・未来のすべての人類の罪を許されました。
ただその恩恵を受けるためには、御子イエスの言葉を信じるという条件を付けられました。
これは、自由意思で人間は善悪の知識の木の実を食べ罪に陥ったのならば、神の救いの恵みを選ぶのも人間が自由意思で選択する必要があると言うことだとおもいます。それが神の義というものではないでしょうか。
神は、罪が入る前のアダムとエバのように善悪の判断は神に委ねて永遠に共に生きていくことを望んでおられます。神の創造の御業はどこまでも続きます。
人間は、その心を神に向けるかサタンに向けるかは自由である。この世の悲しみ・苦しみや艱難は見方によれば訓練にもなるが、それも自由意志があるから起こることといえる。
もちろん、サタンなどの誘いに乗るかどうかも自由意志である。
神様はいつも人間の祈りによる交信を求めておられる。善悪の判断を神に委ねるということは、神が、人間が心を開き、いつも意識を同じくするために神と交信(祈り)しながら暮らしてくれることに望んでおられるということになる。
そうなれば、人間をサタンから守ることが出来、物質的にも精神的にも人間の望むことをしょうと思う気持ちになる。
与えられた人間は喜ぶ。その様子を見て神は喜ぶ。これが聖書における祝福だということになると思います。もちろん、神に栄光を帰すということです。
神の創造されたもの、なされたことで意味のないことは何もないはずだ。サタンであっても必要な存在であるはずだ。
ある人が言われている、この世の悲しみ・苦しみや艱難は人間が霊的な成長をするために必要なことである。次の世では経験できない人間にとって必要なことだといわれている。イエスは言われている、「悲しむ人は幸いである」新約聖書マタイによる福音書5章4節。
本文の頭書の疑問の答えは、どこから来たというのは神の創造による。どこへ行くというのは、神のもとに行く。生きることの意味は、神の創造の目的に沿うこと。
それは神を愛し隣人を自分を愛するように愛しなさいというイエスの命令を守ることだとわたしは思います。隣人を自分を愛するように愛するのは難しい、でも神を愛せたらそれができると言われています。
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