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2009年12月18日 (金)

人生は学びの場か

生きる喜びとは、何だと思いますか。なかなか難しい問題です。お金、財産、名誉、高い地位、それとも人を権力で支配する喜びでしょうか。

しかし、よく考えると大変な苦労をしてそれらを手に入れたとしても、妬みと羨望の戦いが始まるし、一つ間違えば混乱の極みとなります。それにどこまでいけば満足できるのかキリがありません。人間の欲望は、そのようなものだと思います。

欲に切りがないとか権力に酔う、とかいいますが限界がありません。そして、死ねば何の意味もなくなる。次の世には、持って行けません。


それらのものは、ある意味人生を生きる上にもたらされる艱難辛苦の原因、思い悩みの原因の一つではではないでしょうか。猜疑心は強くなり心は不安定になります。

そうは思っても、完全に捨てられるものでもありません。この世で生きていく上で、ある程度は必要であることには間違いありません。

わたしは思うに、生きる喜びの最たるものは、生きて学ぶこと、あるいは学ぶために生きること、ああ、生きていて良かった、生きていたからこそ、このことが学べたと、そうゆう風に思える学びに出会えたときだと思います。

もちろんどのような人生を送っても、そこに学びがあるなら人生に意味があると思います。人生を学びの場であるとすれば、人生の評価は、やはり全体を一つのものとして評価すべきと思います。ということは、人生を一体として生きるということになります。

わたしはこのことを、現役をリタイアして過去を振り返ってみた時に始めて本当のことだと実感しました。

人生を一体として生きるということは、過去を現在の貴重な糧にして生きること。物心ついたときから今にいたるまで一体として捉える人生、その中で、とくに失敗した過去、悲しい過去、恥ずかしい過去は今に知恵を与え、生きる力を与えます。

逆境が、人を立派にするとよく言いますが、それは、逆境は人間に孤独を教えるからだと思います。逆境のときは、本当に孤独です。

たとえ理解してくれる同僚とか友人がいても、一人で耐え、その結果がどのような形であれ、受容しなければなりません。

また、逆境の時は、人から離れて一人になれるときであり、親しかった人が去っていくときともいえます。わたしにもそのようなときがありました。

わたしは、そのときに、ここぞとばかり勉強をしました、しぶとく粘り強く生きていくことを覚えました。

それは、いわゆる仕事に干された時なのですが、そのときはまたそのうち情勢も変わるだろうなどとのんきに構えていました。だけど孤独でした。

今思い返せば、その時の孤独がわたし自身を成長させ、自立させ、成長させたのだと思います。孤独は人生経験に於いて特に大切なことだと思います。

孤独の真っただ中にいる時、人は自分の本当の姿を見つめざるを得なくなると思います。

それは、将来を考え、次の準備の為の機会が与えられるときといえます。貴重な恵みのときなのかもしれません。これも人生一体としてとらえるから言えることだと思います。

逆境を乗り越えるための強い見方は、やはり先に希望を持てることだと思います。

先に希望が無ければ孤独に人間は耐えられるのだろうか、疑問に思います。どのような状態でも希望をもつことは大切かと思います。もうだめだと思っても必ずどこかに希望はあるものです。

このようなことを書くと、弱さのゆえに逆境に負けてしまう人はどうなのかといわれそうですが、イエスは、逃れの道も備えてあると言っておられます。

新約聖書コリント信徒への手紙第一10章13節「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。

あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」この言葉を信じることも先に希望をつなぐことだと思います。

わたしの人生を支えたのは、わたしの身体の障害だと思います。障害者(といっても身障5級ですが)というのも恥ずかしいのですが、それでも子供のころは結構負担に思っていました。

神様はきっと私の人生に必要だからわたしがくじけない程度の障害を与えられたと思います。わたしは目立たないけれども、結構粘り強く、我慢強く、負けん気の強い人間になったと思います。

わたしの会社人生で、会社が倒産して吸収合併されるときに、守りに入った同僚全てを裏切り攻めの修羅場に自分を委ねたことがあります。もちろん、自分を鍛えるためであり、これからの自分の人生を考えたうえでの確信犯です。

この経験が、わたしの人生の糧となりました。同僚全てを裏切って新しい組織に飛び込んだ時は、悔しくて、不安で、孤独でした。

でも、その選択が正しかったのか、いろいろありましたが、新しい友を得て、その後の人生は、干されることもありましたが、リストラ対象になることもなく、大きな艱難もなく定年を無事迎えることができました。

生涯に無駄は一つもないという気持ちで生きることは大切かと思います。人間の学びは、幼少期、少年期、青年期、壮年期とその時代に学んだことが受け継がれて老年期に集大成されるといえます。

念のためにもう一度書いておきますが、その学びは、この世の価値観のなかで成功することだけではないのは確かです。負け組でも、負け組だから貴重な学びができることは大いにあると思います。

さて、学びを感謝だと教えているのは、イエス・キリストです。聖書は、若いうちにあなたの創造主である神を知りなさい、といっています。

自分の人生は、世界で唯一、あなたしか歩めないオンリーワンの人生です。その人生での学びが、神の計画に添うならばこの上ない喜びとなり、貴重なものとなるといっておられます。

人生全てが学びなら、そして一体なら、その結果が集大成される人生のかなたにある次の世の為に学んでいるともいえると思います。

もちろん、学びの内容は人生における経験の全てだと思います。次の世の為に、この世の艱難辛苦を体験させてくださる神様に感謝すべきである、ということになります。ある本に書いてありました。

次の世では、何が罪なのか、何が悲しいのか、何が苦しいのかなどを学ぶことはできない。しかし、それは霊の成長に必要である。だから、この世での学びは大切である、この世の艱難辛苦はそのためにあると。

聖書に出会い聖書から学ぶことは、このいずれ滅ぶべきこの肉の命を元手にして、滅ぶことのない永遠の命を獲得する方法を知ることです。

地上に生かされている間、この限りある時間を最大限に活用して次の世に生きる力を養うこと、これこそ人生の最大の意義だということ。

そのような信仰を持つことにより、初めて、しっかりした人生を歩め、生涯に一つも無駄はない、といえるのではなかろうか。

まだ、聖書の何たるかも、人生の何たるかも知らない未熟なわたしですが、残された人生をそのために精一杯生きていきたいと思っています。そして、どのようなことが起ころうが希望をもって歩みたいと思っています。

聖書に出会うことは、イエスに出会うこと、若くして出会うことは感謝である。感受性の強い若いときにこそ神を知ることは大切であるということです。わたしは少し遅かったようですが、心が若いから・・いいか。

今日の聖句、旧約聖書、コヘレトの言葉12章1節「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」。

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