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2009年12月 2日 (水)

奇跡と科学

奇蹟と科学いついて考えてみます。
といいましても、科学、特に化学のことは一般的な知識しか持ち合わせませんが、ご了承ください。西欧で発達した近代科学は、創造主である神様を知ることからはじまったと聞いております。

それは被造物が創造主を求める心からは始まったと聞いております。
被造物(人間)が創造主を求めるのは理にかなっていると思います。それは、そのように人間は造られているからだとわたしは思うのです。


人間が被造物なら創造主は人間を造るときには、そこに何か目的を持って造られたと思うのは当たり前だと思います。目的なくして何かを造ることなど考えられません。

神様を見た者は誰もいない。だから、神様を信じる信仰は、懐疑の内に生まれるといいますか、成長するといいます。

「わたしを見た者は、父を(神)見たのだ。」(ヨハネによる福音書第14章9節)とイエスは言われていますが、そのイエスも今は霊的存在とは別にして、目には見えません。

物理法則はわかっても、どうしてその仕組みが出来たのかはわからない。花木は水をやれば大きくなるのはわかっても、なぜ大きくなるかはわからない。

人間は、ただ水をやり世話をするだけです。種に命があるからといわれる方もおられるでしょうが、その命はどこからきたのでしょうか、と問いたい。水をやれば勝手に生きるものとなるのでしょうか。

精子と卵子が結合したら、新しい命が生まれ、やがて細胞分裂を繰り返し、一個の人間になっていく。これも同じです。親は世話をし、育てるだけで勝手に大きくなります。

なぜ大きくなるのか誰も分からない。親の役目は、立派に育つように世話をするだけです。

人間は、この世に存在するものの仕組みを研究しているが、なぜそうなるのかはわからない。

たとえば人間は生きていくために食物を食べるが、その食物はこの体の中で血となり肉となり身体を構成し維持する。その仕組みはどうなっているのだろうか。

身体の中で化学反応するということがわかっても、どのような仕組みで、どのようにしてそうなるのかがわからない。

DNAの仕組みが自然に出来るわけはない。DNAの働きが解明されてもそのDNAがなぜそのような働きをするのかは分からない。

第一その様な複雑なものが偶然に出来るのだろうか。タンパク質でできた細胞が集まれば勝手に目になったり内蔵になったり、命が生まれたり、心が生まれたりするというのだろうか、この神秘は、わたしにとっては奇跡だと思います。このことを説明できる人があれば教えて欲しい。

どんなに科学が進歩しても、言えることは、この宇宙が、人間がどうして出来たかは誰にも分からない。そして、人間は有から有を造れても無から有は絶対に造れない。これから後も人間には出来ないと思います。

今のところ、そのようなことを教えているのは聖書(聖書は空想物語ではない、歴史的事実だという前提で)のみだと思います。

このようにこの世は分からないことばかりです。この世自体が奇跡だと思いませんか。奇蹟という神秘はわからないから信仰でしか捉えることが出来ないということでしょう。

聖書では、この世にあらわれていることは全体の一部であって、現れていないことは人間にとって必要ではないから隠されているということであります。

だから人間がいくら研究しても、所詮この世にあらわれているものが対象ですから、知ることには限界があるということになります。

例えば、草木は、水をやるだけでなぜ大きくなるのかは、隠されているからどんなに科学が進歩しても人間にはわからない、ということです。

科学は宇宙に存在する法則が「それで全部だ」とは決して科学的に説明することもできない。

また、科学というものが全宇宙に存在するすべての原理原則を発見しつくしたとしても(科学の目的は法則の発見、すでに存在する物の仕組みを研究しているだけであり、真理への到達ではないと、どの本かは忘れましたがある本に書いてありました。)、

なぜそのような法則があるのかという理由については、たったの一言も科学は答えられることができない。第一物理法則が計算で証明できるから、秩序正しく宇宙が運営されているから人間は宇宙を旅することができるのです。

それらのことは、偶然には決して生まれない。それはただ唯一の方が、秩序ある法則を持ってこの宇宙を造られたからだと思うしかありません。

秩序と言うものは法則を持って誰かが意識して創造するときに生まれるものだと思います。

新約聖書、特にその最初にある4つの福音書には、しばしば奇跡の記事が出てきます。

この奇跡の記事を読んで、「こんな非科学的な話が書いてある本が、どうしてこの現代にまかり通っているのか」と戸惑いを感じる人もいるようです。

ある人は、「聖書の中に奇跡の記事がなかったら、創造主である神様の言葉として受け入れられるのに」と言われる方もいますが、よくよく考えてみますと、このような考え方は、少し変だと思いませんか。

この人は、奇跡を行う神様は信じられないが、奇跡を行えない神様なら信じられると言うのです。

果たして奇跡を行えない神様というのは、わたしたちのような人間と、どれほどの違いがあるのでしょうか。そのかたは神様を自分の世界に引きずり込んでいるのです。

奇跡とは、ひとことで言えば、自然の法則を超えた現象のことですが、この法則と神様の関係は、法律と人間の関係に似ていると思います。

実際、自然法則も、法律も、英語ではLAWというと聞いております。奇跡は自然法則の例外と考えます。

国会や議会は、法律を制定したり、廃止したり、あるいは法律の一部に例外をつくったりする権威と権限を持っています。

これと同じように、神様が法則をつくり、またその例外をつくることができるとしても、何の不思議もないはずです。もし赤信号を通過する救急車を見て、あの車は道路交通法違反だととがめる人がいたら、あなたはどう思われますか。

法律には例外はつきものです。複雑な人間社会を規律するのですから当たり前です。

これが理解できるなら、神様がイエス・キリストを通してなされた奇蹟、自然の法則を超えてなされた奇蹟を法則違反だとか、あり得ない、ということはないでしょう。原則のあるところに例外は必ずあります。

法律が国会をつくるのではなく、国会が法律をつくります。自然法則が神様をつくるのではなく、神様が自然法則をつくります。

奇跡があるから神様が信じられないというのではなく、神様がいるなら奇跡があっても不思議ではない、むしろ当たり前だ、と考えた方がより論理的ではないでしょうか。

つまり、神様の存在を信じたら、どんな不思議なことも信じられます。

聖書の奇跡は、人を驚かせたり、不思議なことを見せつけたりする見世物のために行われるのではなく、ただ人に対する神様のみこころ、つまり神様が人を愛していることを示すため、イエスが神であり、その言葉が真実であることを証するために行われました。

それも死んだ人間が生き返るという大きな奇蹟も行われました。

いまわたしたちの目の前で起こっている、生命の誕生と成長の奇蹟を、当たり前のように信じているのなら、いや、あまりにも当たり前だからそれが奇跡だとだれも気がつかない。

それと同じように、聖書に書いてある奇蹟は、にわかには信じられないけれど、事実として信じるしか仕方ないのです。否定する何の根拠もありません。

人間を含む森羅万象を見ていると、創造神である神様の存在抜きには、考えられないのです。

この世で起こっている神秘(例えば生命の誕生)を、奇蹟と知りながら隠れて働いておられる神様の存在を否定するのは人間、造られたものの傲慢です。

人類の歴史の中で、神様がなされた奇跡の中で最大の奇跡は、イエス・キリストの誕生です。だからキリスト教は奇跡の宗教です。

いつも言っていますが、神様から出た宗教です。人間が人間のために造った宗教ではありません。神様が人間のために造った宗教です。キリスト教から奇跡をとればキリスト教ではなくなります。

確かに聖書には、信用できない、つまり実際には起こっていなくて、神話とか旧約聖書からとられた奇跡もあると思います。

現代マスコミによる伝説的作り話と同じようにです。キリスト教にも伝説話はあります。でも、それらはすべて込みでイエスキリストの誕生という現実に起こった奇跡に集約されるのです。

つまり、実際にあった奇跡はもちろん、そういう作り話であるかもと疑われる伝説も全てが動員されて、歴史上の出来事であるイエスの受肉に備えている、あるいは受肉を示しているのです。

イスラエル民族に起こったすべての出来事が、イエスの受肉と言う実際に起こった出来事である奇跡に集約されるのです。

受肉と言うのは、イエスの本体は神の言葉で、神の言葉が肉体をもった人間に成ったということです。

この神秘!!ヨハネによる福音書第1章を読んでください。約2000年前にこのような文書を書く人がいたなんて信じられません。人類史上最大の奇跡をヨハネはこのように現したのです。

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