死んだらおしまいか
人間死んだらおしまいでない、と確信がもてたら随分人生の見方が変わるでしょうね。イエスは、我々に多くのものをプレゼントしてくれましたが、そのうち、一番大切なことは、「人間死んでおしまいでない」ということです。
その背景には、永遠に存続する世界、天の王国がこの世とは別にあるということです。しかも、そちらが人間の故郷で現世は仮の住まいだということです。
人の身体は、長くて100年もすれば壊れます。死んで腐って崩壊して土に帰ります。この目に見える身体だけ見ていたら、人間は、死んでおしまいです。
しかし、イエスは、人間は霊的存在で、その霊は本来永遠のものだと教えました。イエスは、霊的にして論理的・体系的な教えを述べ、それを証するために様々な奇跡を見せました。病人をいやし、死人をよみがえらせました。
イエスは、その奇蹟を起す力を、弟子たちにも与えました。そして、実際そうなった様が使徒行伝という書物などに数多く記録されています。
わたしには、聖書を読んでイエスの教えが論理的・体系的であると分かったときに、これは凄いと思いました。これは事実が記載されていると思いました。
教えに対する現実感は、信仰に結びつきます。書いてあることが事実だと思うと、その思想とか教えに信頼感が増します。信仰心をもつというのは、思想とか教えを信頼することだと思うのです。
イエスは、この地上に生きていた時の直接の弟子に限らず、その弟子たち、又その弟子たち、そして今にいたるまでの多くの弟子たちにも、
こうして、人は死んだら終わりでない、次の世があるという確信を持たせることができました。確信を持ったから各時代の弟子は命をかけてイエスの教えを後世に伝えようとしました。
背景には、イエスの御霊、聖霊の働きがあるのですがその詳しい話はまた別の機会にします。
ただ言えることは、そのようにしてイエスの言葉を信じる代々の弟子がたゆまず起こされ、それが本当だと思って後世に伝えたのは事実です。
そのような人達が、この2000年間のキリスト教の歴史を造ったのは事実です。
人は死んだらおしまいでない、と思ったとき、わたしなど、今のこの人生の意味をまず考えました。
次に来世はどのようなところだろと考えました。未知の世界へのちょっとした不安感と興味をもちました。そして、一生懸命次の世に関するいろんな本を読みました。
結局、確かなことは分からずじまい。
それは、当たり前ですね、よく考えればそこはもう宗教と言うか信仰の範疇ですからね。分からないことは、聖書に書かれていることをそのとおりですと言って信じるしかないのですね。
イエスは聖書に記載されたことが真実であることの証として奇蹟を起こし、史上最大の奇跡である死から復活しました。これでもまだ疑うのか、と問われているような気がします。
次の世が有るとわかったら、希望も生まれます。
わたしは、聖書から次の世のことと現世を生きることの意味を知りました。確信を持ったと言うところまではいかないけれど、否定しょうにもイエスの教えの現実感が立ちはだかって否定できません。
その結果、今までの先の見えない、生きる意味というか人生の意味を尋ねる放浪の人生に、少し明るさが、そうですねすぐそこに見えてきたような気がします。
もし、いま自殺しょうと考えている人があれば、もしその人が、次の世があると確信を持てたら、ひょっとしたら自殺を思い止まるかもしれない。
来世があると思えると、もしかしたら自分を創った創造主が存在するかも、と思えるかもしれない。そうなればしめたもの。
自分が誰かに造られた存在だとわかれば、その創造主をきっと知りたくなると思います。聖書にはその創造主のことが書いてあります。
その創造主を知れば、人生に希望を持てるようになる。人生に希望をもてれば死にたくなくなります。イエスはその事を教えています。
いま、人生について悩んでいる方があれば、ぜひ教会へ行っていただきたいと思います。そして、牧師に相談してください。少しでも光が見えれば幸いです。
次の世があると思えなかったら、どうせ死んだらおしまい、と思ったら、生きているのが辛いときなど、人生、もう終わりだ、もう希望なんてどうでもいいや、早いことこの辛い状況から逃げ出して楽になりたい、と思いませんか。あとは何もなし、無ですからね。
生きていく意味など考えずに、流されるままに生きていくことも出来ますが、それは、自分の存在に意味を見出せない空しい人生だと思います。
そうでしょう、意味のない人生ですから、誰にも頼りにされない、誰とも真面目に関わることのない人生ですよ。最後には、誰もいないところで、誰にも知られずに死んでいくのですよ。
しかし、そのような人でも、自分を否定されたら怒ると思います。これはやはり自分にも存在価値があると意思表示していることになる。やはり意味ある人生を、誰でも本当は送りたい。
自分が意味ある存在だと思いたいのです。どちらの人生を選ぶかは勝手ですが、人生に失望して、どうせやることがないのなら是非聖書を読んでください。記載内容は本当のことだと思って。
この2000年間その時代の偉い学者が必死になって調べたが、誰も否定できなかった事実を、また聖書を読んで人生が変えられた人が無数にいるという事実を覚えて読んでください。
そうです、たったの聖書の一節を読み人生を180度変えられた人も数多くいるのです。記載内容を疑うにはこの2000年間の歴史的事実が余りに重過ぎます。
人は、生きていく意味を失うと、物事全てに意欲が抱けなくなる。すると人は小さなことでも胸に刺さって心が傷つきやすくなると思います。生きようとする意欲が強いと大抵のことでは傷つかなくなりますが、その反対の状態になるわけです。
傷つかないためには、外界、他者(親、兄弟も含めて)と接触する機会、人間関係をなくすしかありませんから、ごく自然に引きこもってしまいます。
この引きこもり状態にある人に、イエスの言葉・イエスの教えを、人生死んだら終わりでないことを知ってもらえればと思うのです。
人間に、霊というものがあると言われても、それは見えませんから、霊があるなんて信じられない。
だけど生きているから命があるのは分かる。命は何処からくるのかと考えると、肉体から来るとは思えないので別の目に見えない何かがあると思う。
それは魂だとすると霊とは何か。聖書には、神は霊であり、神は人間を創造したときに、その鼻に命の息を吹き入れられた、と書いてあります。この息が霊だという。人間は霊的存在だと言うことです。
肉体は、長くても100年もすれば壊れて消滅する。人は誰でも、幼いときから自分と同じ人間が死んでいくのを目の前で見ています。だから、人間は死ぬということを、現実感はないけれど心のどこかで確信しています。
そのようなところに、来世があるとか、霊があると言われても、そうかもしれないと思っても、なかなか信じることができません。それを教えてくれるのが聖書です。
疑心暗鬼ながらも、聖書を読んでいたら、ある時、その人の心に聖霊が入り、霊の世界あることを、次の世がある事を教えてくれる。聖書に書いてある、イエスの御言葉が現実感をもってその人に飛び込んでくる。
多くの人が、それを求めて聖書を読んでいます。そのような不思議な世界を試してみるのもいいかもしれません。
わたしは、人間は、来世があることを直感的に知っているのではなかろうかと思うときがあります。
だから信仰をもっていないのに、祈ったり、人が死ねば、また会おうなとか、先に行って待っていてくれよ、と言ったりする。教えられていないのにそう思う。
アフリカの未開の人々も誰も教えもしないのに、神なるものを拝んでいるではないですか。人間は、教えられてもいないことは本来分からないはずです。人間を造ったものがそのような思いを植え付けていない限りですね。
このように、永遠を思う気持ちは、動物には無い人間独自のものとされています。そこに何か来世についての憧れがあると思うのです。
わたしの魂が、それを知りたいと要求しているのです。もしかしたら、来世は魂の故郷かもしれません。旧約聖書コヘレトの言葉第12章7節にこのような言葉があります。
「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。」。塵はこの肉の体のこと。創世記には肉の体は「塵にすぎないお前は塵に帰る。」とあります。
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