生と死
ここでは聖書における生と死を考えてみたいと思います。
日本では、人が死ぬと家族とか友人知人は、口を合わせたようにあの世でまた会いましょうとか天国へ逝かれたとか、別れの言葉を述べますが、
それはどのような根拠に基づいているのか、おそらくほとんどの人は確かな根拠などを持たなくて言われていると思うのです。キリスト教はそういうことに確かな根拠を与えてくれる宗教です。
聖書の言う「生と死」は、自然科学で言う生と死とは異なります。自然科学は肉体の生死を持って生とか死をとらえていますが、キリスト教は、肉体の生死以外に霊的な生と死を問題とします。
つまり、誕生については、肉体の誕生に対して新たに聖霊によって生まれる誕生があります。これはキリスト教入信時に受ける洗礼に象徴されています。
同じように、死も、肉体の死とは異なる次元のものとして霊的な死を問題とします。
また、聖書では、罪と死とが関連づけられています。罪の報酬は死という考えですが、この場合は罪に対する裁きという面があると思うのです。
自然から生じる生物学的生命は、つねに衰え朽ちていく。そして、空気や水や食物といった形でたえず自然から補給をうけることによって始めて生存していける生命であります。
これに反し、永遠の昔からこの宇宙にあり全自然界を造った霊的生命があります。この霊的生命は、創造主である神様から活力を常に補充することによって生存している生命だといえます。
つまり、人間の構造は、肉体と霊からなっていて死を迎えると、肉体は機能を停止し土にかえり霊はぬけて存続しつづける。人間の霊は身体に入ることによって、その身体を生かしていると考えられます。
だから、肉体を離れてもうもどらないようになると、その身体は死んでしまいます。だから、その霊が身体にもどれば、また生き返ります(使徒言行録第7章59節-60節、ルカによる福音書第8章53節-55節)。
また、脳や神経等の身体器官からくる意識に対し、霊は一つの意識体であると思います。(コリントの信徒への手紙 第一 第2章11節)。意識の本体は霊にある(コリントの信徒への手紙第二 第5章6節・8節・9節12章2-4節)のです。
人間の霊は本来永遠に存続するものでありますが、それはあくまでも創造主である神との交流がつねになされていることが前提条件であります。
人の霊は、わたしたちが食物を食べなければ死んでしまうように、霊も創造主からのエネルギーといいますか、活力源をえなければ長く生きられないのです。
創造主の活力源に支えられていて初めて人の霊は命の輝きを持ち永遠に生きることができるのです。
ところが、エデンの園においてアダムが創造主である神から離反してしまったのでその活力源を得ることができなくなり、人の霊は死ぬものとなったのです。
アダムの子孫であるわたしたちは、その性質を引き継いでいるということです。
おそらく、この活力源は創造主から宇宙にあまねく放射されていて、人間の霊や天使などの被造霊に吸収されるのではないでしょうか。
イエスは断絶した神と人との仲を取り戻すためにこの世に来られたということです。
イエスの言葉を信じ留めると聖霊がその人に内住し、神との交流が再開されますので命の活力源が吸収できるようになり、その結果、その人の霊は永遠の命を得て、変えられて新しい人間に創造されるのです。
これを古い自分に死に、新しい命に生きるといっています。
神様に近い人間ほど、創造主の活力の吸収はよく、より神に近い意識をもつことになるので、その人は神からみるとかわいくて愛すべき存在ではないでしょうか。
イエスの言葉を信じ留めるならその人にはイエスの御霊、聖霊が宿るとイエスは約束しています(新約聖書ヨハネによる福音書第14章17節)。
聖霊がその人に内住するとこの世においてすでにその人は死から生に移るのですが、このときの生死は霊的な生死のことを言います。
聖霊の内住したその人は人間の生殖活動により親からもらった古い命に死に、新しい人間として創造されるのです。このことは、神の創造の御業の一環として位置付けられていると思います。
このように、聖書での生死は、神とキリストとに関連づけられています。命とは生きているというよりも、新しい人間を創造し続ける神の業にあるというのが聖書の言う「命」だと思います。
創造主としての父なる神は、現在も創造の働きを続けておられる方として考えています。もちろん、人間個人だけではなしに宇宙的にです。
このような聖霊の話は、聞いただけでは信じられません。なにしろ、目には見えないものですから。だから、科学的にその存在とか働きは証明できません。
それは人の内面に生じる心理的出来事のことであって、思い込みでは、と言われますが、そうとも言い切れないのです。聖霊の働きはその人個人の心理現象だけではとうてい説明がつかないからです。
この2000年のキリスト教の歩みがそれを証明していると思います。
それに、わたしの知っているほとんどのクリスチャンは、はっきり自覚できる状態でなんらかの聖霊体験にであっておられるのも事実です。もちろん、世界中でいえばそのような話はごまんとあります。
マザーテレサも電車の中でそのような体験をされています。その体験がマザーの生涯を決めたのです。
それほど霊的体験というものはその人にとって大きな出来事なのです。目に見えない体験が形となって表れるのですから、客観性がないとも言えないのです。
聖霊体験をした人は、自分の自然な存在だけでなく、それを超える何か不思議なものが存在するという実感を得ると言うことです。聖書では「復活のキリストと出会う」という言葉で表現されています。
昔から、聖人の頭に後円が描かれているのは、ひょっとしたら、何らかの聖霊体験に出会った人が、絵を描く場合あのような形でその体験を表現したのではと思います。
聖霊体験はどのような形で起こるかといいますと、「見る」「聞く」「読む」「祈る」を通じてだと思います。聖霊は聖書の言葉に働かれますから、聖書の言葉を耳で聞く、目で読む、そして祈ることです。
聞くのは耳、読むのは目、祈るのは心です。ルカによる福音書第11章9節にはこのように書いてあります。「・・求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。
そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」。あらゆる方法でもとめなさいと言っておられます。
聖霊は、霊ですから体や心よりももっと深いところ、人間の体の最も奥深いところに宿ります。ここがくるっていると、人間おかしくなると思います。
その人の霊の状態によってその人の本当の有り様が決まると思うのです。おそらく来世における裁きの対象は表に出ている状態ではなくその人間の本体の有り様だと思うのです。
キリスト教は、イエスの言葉を信じ心に留めなさいと教えます。そうすると、イエスの御霊、聖霊がその人の体の最も深いところに宿り、その人を新しい人間に創造する、造り変えてくださるのです。
この世における創造の過程が次の世での復活と天国につながるのです。それは、まさしくこの世において天国が来ている状態と言えます。
これがまさしく活きると言うことではないでしょうか。不思議なことですが、世界人口の3分の1を占めるクリスチャンがそのことを信じているのです。
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